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      夜間歩行

 夜になった:街道には静けさ
 むこうのほうで河が微
(かす)かな波音をたて
 鈍い流れは圧
(お)し黙った漆黒の
 闇をめざして漂う。

 河がその底深い寝床でざわめく
 すっかり不機嫌になって荒れているのだ
 まるで静かに寝たいのにとでも言いたげに;
 そしてわたしも彼とおなじくらい疲れているのだろう。

 それは夜と異郷をこえてゆく
 悲しいみちづれの旅路
 圧し黙り、脇目もふらずに足をはこぶ二人
 どこへ向かっているのかさえぼくらは知らないのだ。

  ――――――――



      白い雲たち

 おお見よ、かれらがふたたび
 青いそらにうかぶ:忘れられた美しい歌の
 ひそやかな旋律のように
 雲の群れがわたってゆく!

 永い旅路のはてに、彷徨
(さまよい)
 あらゆる労苦と喜びを知った者でなければ
 どんな心もかれらを
 理会することはできぬ。

 わたしはその白き群れ、太陽の光と
 海と風のように定まらぬものたちを愛す:
     なぜならかれらは故郷を失くした者の
 兄弟姉妹、そして天使なのだから。







 徒歩旅行の詩を集めてみました。

 最初の詩の最後にある「二人」「ぼくら」は、文脈の流れから言えば、作者と「河」のことになりますが、作者と徒歩旅行の道づれの「二人」にも読めます。詩行を詠み列ねているうちに、人称代名詞の指す対象がずれて行ってしまうのは、ヘッセの詩によくあることですから、第2連の最終行「わたしも彼とおなじくらい疲れている」あたりから後は、旅の伴侶と読んでさしつかえないと思います。

 2番目の「白い雲たち」。原タイトルにある「雲」の複数を、あえて「雲たち」としました。最終行を見ても、雲を擬人的に扱っていることはたしかです。しかし、擬人と言っても、メルヘンやファンタジーのような擬人とは違います。「彷徨の‥労苦と喜びを知った者でなければ/‥かれら(雲たち)を/理会することはできぬ」という部分に、この詩のテーマがあります。はっきりとした境目のない、不定形な「雲」という存在。下のほうが、ほつれるように糸を垂らしていたり、輪郭がぼんやりと空に溶けこんでいたり。そして、いかにも軽々と大空を渡って行きます。そういう「雲」という存在のしかたを、あなたは理解することができるか?‥‥と問われたときの、雲の擬人化なのです。

 この“雲たちを理会できるか”と云うのは、あてどのない徒歩旅行を愛するような“漂泊の魂”を理会できるかということです。

 ちなみに「理会」は、現代の日本ではあまり使われない熟語ですが、『朱子家語』などにあり、今でも儒学系、禅宗系でよく使われます。中世の江南で使われた言葉だそうです。頭でわかるのが「理解」、体でわかるのが「理会」です。「会」は「会得(えとく)」の「会」。



 雲はもちろん地球上どこにでもありますが、やはり北国の空に見る雲のほうが、なにか迫力があって、見ていると雲の“感情”が伝わってくるように感じられます。スイスもドイツも、緯度で言うと日本よりずっと北にあります。フランクフルトは北緯50度でサハリン島の中央部、チューリッヒは北緯47度でサハリン南部にあたります。

 東北の空に流れる雲は、町や村のけしきの背景を彩っているというよりも、人界を超越した独自の考えを持って動いている存在、あるいは、彼岸の世界に属する存在のように思われることがあります。

 

 







      春の旅路

 祭りの紅い焔
(ほむら)たち
 色あざやかな冒険と
 晴れやかな仮面の山車
(だし)行列
 軽佻浮薄な嘘のかずかず
 癒されようのない長い日々
 大きな小さな厄介ごと――
 幾千幾万の虚しい時から
 わたしは健康をとりもどしたい。

 わたしの愛しい青春の時は
 ただの一瞬光っただけで
 それをわたしが認めたとたんに
 こそこそ逃げ去ってしまったのだ
 わたしはもういちど探したい
 どこにいるかは解ってるのだ:
 樅の下、椈
(ぶな)の木蔭で
 風に揺られ
 雲におおわれ
 河の泡立つ流れをかぶり
 野獣のように嵐のように
 われをわすれて夢中になって
 それをこの手につかむまで
 山を越え谿を跨いで追いかける
 わたしはけっして諦めぬ
 どこまで行ってもそれは去ったあとなのだ。

 かくてわたしは彷徨
(さまよい)
 足の向くまま旅じたく
 鳥が木枝にとまるように
 大地の胸で憩うため
 河に沿ってさかのぼり
 沢と谿間に分け入って
 巖
(いわお)とはるかな頂(いただき)を越え
 逃げ足速いわたしの青春を追いかける。



 

 

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