クリスマスのころ
私はクリスマスには好んで旅をする
子どもらの歓声から遠ざかり
雪にうもれた森を歩いていると
けっして毎年とはいかないが
しばしば自分の最良の時に出会うのだ
さまよう森のどこかで
とつぜん周りのすべてから
生きかえるような子どもの頃の匂いが蘇(よみがえ)り
胸深く私を包みこむ
そして私はふたたび少年になっている……
私たちは、はじめて訪れた場所に、ふとなつかしい気配を感じて驚くことがあります。
その気配がもっと濃くなると、直接に鼻から感じられる匂いとなって、私たちはその中にすっかり包まれてしまう稀有な時間を体験することがあります。とくに、ふだん居慣れた場所で、ふだんはまったく忘却していたなつかしい匂いに出会う時、私たちは、そのはるか以前の時間に立ち還ったような、そして忘れていた本来の時間を一気に取り戻したようなふしぎな感覚でいっぱいになるのです。
ふだん見慣れていた建物の古びた壁や天井やほこりっぽい床が、その時だけは、かつてそこにあった私とほかの人たちの時間を記憶から引き出して、再現して見せているように思われます。私たちが場所を記憶しているのではなく、場所が私たちの時間を記憶しているのです。
私たちは、それが“何の”匂いなのか、突きとめられないことが多いのです。コトバにして、「何の匂い」と言うことはむずかしいのですが、だからといって曖昧な気配のようなものではなく、それは、はっきりとした特定の匂いなのです。
「デジャ・ヴュ」は、眼に見える光景から受ける印象でしょう。そうではなく、眼に見えるものには何も奇異な点はないのに、もっぱら匂いから強烈になつかしい印象を受けるのを、何と云うのでしょう?「デジャ・フレレ」は変でしょうか?!
ともかく、眼に見える光景以上に、匂いの場合には、写真のように記録する手段がないし、「何の匂い」と云うように一言で表すことも難しいのです。そうしたものを記録し保存する手段としては、詩がおそらく唯一のものではないでしょうか?‥詩に表現された匂いを、理解し再現することなどは、それを記録する以上に難しいのですが。。。。
しかし、匂いというものは、しばしば決して曖昧なものではなく、視覚よりも確かなインスピレーションを私たちに与えてくれます。↓下の詩も、眼に見えるさまざまな光景のどれもが、作者の心に湧き上がる暗い疑念を払拭できなかったのに、匂いの感覚によってはじめて、作者は“世界”について確信を得ることができたのだと思います。
草の上に寝そべって
いま花々がくりひろげる奇跡も、かがやかな
夏の野に揺れるうぶげのような色彩も
やさしくひろがる青空も、蜂の羽音も
これらすべては、どこかの神が呻(うめ)き苦しむ
悪夢の影だろうか? 抑圧された無意識の力が
解き放たれんとして上げる叫びだろうか?
美しくくっきりと、そらにしずむ
山々のとおい線もまた
断末魔の悲鳴にすぎないのか?
激昂した自然にみなぎる爆発寸前の緊張なのか?
悲しみ、苦しみ、意味もなく追い求め、
休むことも鎮まることもない永久運動なのか?
ああ違う! 世界の苦しみという悪意にみちた幻、
おまえはわたしから去れ!
おまえには、夕焼けに舞う蚊のダンス、
鳥のひと鳴き、
わたしの額を快く冷やしてくれる
微風(そよかぜ)のひと息でじゅうぶんだ。
わたしから去れ、古めかしい人間の悲哀よ!
なにもかもが責め苦で
なにもかもが苦痛と闇であろうとも、――
この安らかな太陽のひととき
赤ツメクサの匂い
わたしの心にやどる、この深くやさしい
ここちよさは、そうでない。
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