リラの花こぼれる庭辺(ヴィルラリルラ)
白い胸像を載せた白い柱列
どの小径(こみち)にもリラの香り
とびかうツバメはさわがしいほど繁く、
はば広い階段で時が眠っている;
アカシヤの花は雪のように降り
見ればテラスの上で枝をひろげている。
壁のくぼみに身を寄せて
わたしは杏子の実の落ちる音を聞く
砂地におちた柱列の巨きな影が
ゆっくりと入れ替ってゆくのを見る
時はどこへ行ってしまったのだろう
わたしの心のなかで夢をみているのだろうか
とおくの村からダンスの喧騒が
愛に疲れたようにひびいてくる
陽の光がひらひらと舞い
あの日のような燻(くす)んだ光彩をはなつ
ぼくらがはじめての夜をむかえた日
夾竹桃の花咲くころに。
いまおまえの姿はわたしのまえに
はじめての愛の絢爛豪華とともにたちあがる
おまえが庭の戸口から入ってゆくのが見える
あの日とおなじおどおどした含羞(はにかみ)と
子どものような赤いほおをして:
ぼくらがはじめての夜をむかえた日。
噴水の疲れたような喝采の水音が
しじまのなかでにわかに大きく聞こえた
あの日のように!―そう、わたしの心は
あの夜々の夢を紡ごうとして
なおも愛の言葉を捜しもとめ
疲れたように涙を追い求めているのだ。
題名の「ヴィルラリルラ」は辞書には出ていませんでした。「ヴィルラネルラ」(イタリア民謡の一種)と「リルラ」(リラの木,ライラック)からの造語でしょうか?
原詩で読んでいた時には、さいごのほうにある「愛の言葉」の意味がどうしても解らなかったのですが、翻訳してみると、これはヘッセ流の“詩の言葉”を紡ぎつづけることだとわかります。第3連にある「夾竹桃(オレアンダー)の花」も、ギリシャ、イタリア‥地中海地方の風物です。
ところで、「ぼくらがはじめての夜をむかえた日」あるいは「はじめての愛の絢爛豪華」といった表現が眼を惹きます。たぶんそのへんがこの詩のテーマだと思います。「初恋」という通常の訳語はあえて避けました。少年少女の男女間の淡い「初恋」のふんいきとは少し違うように思ったからです。
オトコどうしの場合、会ってまもなく身体を重ねてしまうことが多いようです(ビアンの人たちは、違うのでしょうか?‥)。本来の意味での精神的な“愛”は、その後で始まります。交際に行きつく場合も、行きつかないで終る場合も‥。
それでも、この詩でなつかしく回想されている「はじめての愛」は、さまざまな樹木のほのかな匂いに彩られて、澄みわたったように白い庭園の風景に展開しています。時間が止ってしまったかのような永遠の世界。ぴったりと気持ちの寄り添う相手に出会ったとき、紡ぎ出される未知の時間の流れは、そうやって日常のあれこれの生活をおしのけて割り込んできます。
もちろんここで描かれているようなそのままが自分の“初恋”に似ているとは、誰も思わないでしょう。ギトンの場合も、これとは真逆だったと告白しなくてはなりません‥‥そもそも、こんなキレイな場所ではありませんでしたw だいたい最初というのは誰しもうまくいかないもので、2人目か3人目あたりの印象が強いはずですが、その印象が、その後の“オトコ遍歴”の方向を決定してしまうのかもしれません。ギトンの場合も2人目の印象が強いのですが、その相手は決してイケメンではありませんでした。でも、誇らず飾らず、ギトンにとっては等身大の相手でした。むしろ、それが良かったと思っています。
しかし、この詩の描き出す光景は、やはり誰の“初恋”にも共通する・あるふんいきをもっていると思います。ぼんやりとくすんだような白い印象がそうなのです。
いっしょにおいで!
いっしょにおいで!
しかしきみは急がなくちゃならない――
ぼくは一歩踏みだすごとに
7マイルゆくんだから。
森と丘の蔭には
ぼくの赤い駿馬(しゅんめ)が隠れている。
いっしょにおいで!ぼくは手綱をにぎる――
ぼくの赤い城においで。
そこには青い樹々が生え
黄金(きん)の林檎を実らせている
誰も夢にも見たことがないような。
そこに微睡(まどろ)むたぐい稀れなる歓びは
かつて誰も味わった者がない。
月桂樹の木陰で交わす紫紺の口づけ――
森と丘を越え、いっしょにおいで!
どうどう!ぼくは手綱を引きしぼる
震えながら、ぼくの赤い駿馬がきみをさらってゆく。
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