あらゆる死を
わたしはすでにあらゆる死を死んできた
これからまたあらゆる死を死のうと思う
樹木の中で木切れの死を死のう
山の頂きで岩石の死を
砂の中で土の死を死のう
ぱちぱちとはぜる夏の草むらで草の葉の枯死を
哀れな血だらけの人間の死を死のう。
わたしは花に生まれ変わろうと思う
樹木に、草に生まれ変わろうと思う
魚(うお)に鹿に、鳥に蝶に、
どんな形姿をとろうとも
高みへの憧れはわたしをさらい
苦悩へとつづく階段を昇らせる、
人間という最後の苦悩をめざして。
おお、ぶるぶるとはりつめた弧形の弓、
欲(ほ)り狂う憧憬の腕が、生の両極を
重ねようとして時を圧(お)し曲げている!
おまえはわたしを息もつかせず幾度となく
極から極へ、死から誕生へと駆りたてた
苦痛にみちた輪廻転生の軌道(みちすじ)よ
かがやかしき輪廻転生の軌道(みちすじ)よ。
ヘッセはもともとプロテスタントの牧師の家に生まれ、キリスト教的な環境で育ち、ドイツの神学校に入学しています。しかし、そうした宗教教育にたえきれず、神学校の寄宿舎を脱走してしまった事情は、小説『車輪の下』に書かれています。そして、その後の生涯の間にしだいに仏教の世界に傾倒するようになりました。
上の詩もそうですが、中年以後のヘッセは、しばしば輪廻を主題とした詩を書いています。しかし、読んでみるとヘッセの仏教は、本来の仏教とは――大乗とも小乗とも――ずいぶん異なっている印象があります。それはひとつには、ヘッセ――のみならず当時のドイツ圏での仏教受容全般に――が、進化論の影響を強く受けているせいだと思います。
おそらく、西洋人の宗教・哲学に深く根を張っている“人間中心主義”――つまりヒューマニズム――の伝統と折り合いをつけながら、“万象悉皆成仏”という仏教の、とくに日本仏教の思想を受け入れるために、進化論がクッションの役割をしたのだと思います。
人間と動物だけでなく、植物も木石も、すべてのものは“有情”で、みな成仏して如来となる資格を有しているという思想は、日本仏教独特のものです。本来のインドの仏教では、《輪廻》とは、六道輪廻であり、①地獄、②餓鬼、③畜生、④修羅、⑤人間、⑥天上という6つの世界を経廻って転生してゆくものです。天人や餓鬼に生まれることはあっても、草木や木石に生まれることはあり得ません。それらは“有情(うじょう)”ではないからです。したがって、草や木や石が悟りを開いて仏になるということもあり得ないのです。
ヘッセが、樹木や岩石をも《輪廻》のなかに入れているのは、おそらく日本の仏教思想から取り入れた考え方だと思います。もっとも、その日本仏教でも、“死んで樹に生まれ変わる”とか“石に生まれ変わる”とは言いませんよね。あの極東軍事裁判の冤罪犠牲者も、「貝になりたい」とは言いましたが、「石になりたい」とは言いませんでしたw
そういう点で、日本の仏教にはゴマカシがあると思います。ゴマカシと言って悪ければ、首尾一貫しないということです。木や石が“解脱”して仏様になるのであれば、木も石も《輪廻》のなかにあるはずです。《輪廻》から外に出ることが“解脱”なのですから。。 だとすれば、人間も、死後は木や石になることがある…と考えなくては一貫しません。
ゴマカシをせずに、正しい論理の導くところを大胆に受け入れて、私たちは、死んだら石になるかもしれないし、水や空気やヘドロになるかもしれない、とハッキリ言うべきです。
ともかく、そのようにして理路整然とドイツ人に理解された“悉皆成仏”の仏教思想は、西洋人の人間中心主義とは、真っ向から矛盾せざるをえません。ヨーロッパの思想・宗教・哲学は、古代ギリシャの昔から現代まで、一貫してヒューマニズム――人間中心主義がバックボーンにあります。キリスト教も、ルネサンスも、近代科学技術と産業革命も、すべて人間中心主義に基づくものと言えます。生命のあるものすべてを――いや、生命のない石や川までも――平等に扱う仏教、とくに日本仏教の思想は、つきつめて考えれば考えるほど、人間中心主義とは矛盾せざるをえないのです。
そこで、両者のあいだに立って衝突をやわらげる働きをしたのが、ちょうどそのころ、ダーウィンの生物学説から一般思想界に影響を及ぼしてはじめていた進化論だったのだと思います。仏教思想を進化論と組み合わせて理解すれば、さまざまな生命のあいだには価値の上下があることになり、人間はその頂点に立つことになるので、人間中心主義とは矛盾しないことになります。
もっとも、ヘッセが受け取った進化論は、これまたダーウィンの本来の進化論とは、かなり違うものです。それは、上の詩を見ても解ります。
ダーウィンの進化論は、神の摂理も、生物の意志の働きもいっさい否定して、ただ自然界の偶然の積み重ねのみによって“適者生存”の原理が働き、結果的に生物の進化が起こる、という考え方です。そこには、生物を進化させようとする“神の意志”の介入も無ければ、より優れたものに進化したいという生物自身の希望も存在しません。
しかし、ヘッセの考えでは、進化をもたらすのは、より高次の存在になりたいと願う生物自身の“あこがれ”なのです。
そして、ヘッセの仏教観が、私たちの仏教イメージと大きく異なる点は、《輪廻》を必ずしも否定的に見てはいないことです。私たちの仏教では、《輪廻》は苦しみにみちた運命であり、そこからの解脱こそが目指されなければなりません。しかし、ヘッセにとっては、《輪廻》は苦しみに満ちたものではあっても、同時にそれは「かがやかしき」巨いなる生の軌道なのです。
花たちもまた
花たちもまた苦痛の死をまぬかれぬ
何の罪も負ってはいないのに。
どんなに私たちの本性が清らかだとしても
私たちは苦痛のみをあじわうことになる
それがどんなに不条理なことだとしても。
私たちが罪と呼んでいたものは
太陽にすっかり吸いとられてしまった
それはもう永いこと、花の杯(さかずき)から香りとなってあふれだし
子どものまなざしとなって私たちをうっとりさせているのだ。
そして花たちが死ぬのとおなじように
私たちの死もまた、ひたすらに
私たちを解き放ち
私たちを再生させてくれるのだ。
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