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     真夜中を一時間過ぎて

 真夜中を一時間過ぎて
 森と遅れた月のほかには目覚める者とてなく
 たったひとりの人間の魂もまだ起きていない
 このときひろびろと、巨きなすがたで立ちあがる
 わたしとわたしの夢たちが住む白い城砦

 広間から広間へ、豪奢なまぼろしがうちよせてゆく
 夢たちがわたしを訪ねてきたのだ
 おごそかに巡る美酒の杯、けれど
 挨拶の唄と割れるような拍手
 をもたらすのは、幕間に現れる気の早い昼だ

 そいつは粗野な拳固で壁を叩き
 太陽のランプを手にもって、
 怒鳴りちらしながら踏みこんで来る:
 まるで風に散乱する光のように
 わたしの夢の世界はこなごなにくだけてしまう。

 壁という壁から装飾が消え
 厳しい人生が金切り声をあげて入ってくる
 わたしはその巨きな力に仕えなければならない
 軛
(くびき)につながれびくびくしながら働かねばならない
――真夜中になるのが、おお、なんと待ち遠しいことか!






 これを読むと、ヘッセは夜型の人なのかな?‥という感じもします。それも、眠れなくてどうしても夜型になってしまうというのではなくて、自ら望んで夜型になっている、夜が好きで好きでたまらないという感じですねw 逆に、“昼”はまるで横柄な暴力オヤジのように罵られています。「軛につながれびくびくしながら働かねばならない」とはまた、ずいぶんあからさまに言ったものですが、じっさい誰もがそう思っていることを、はっきりと表現しているだけなのかもしれません。

 ネット・ブロガーには、夜型の人が多いとすると、この詩は共感を呼ぶかもしれませんねw ギトンももともとは夜型でした。とくに、学生のころは完全な夜型でしたが、いまは半分夜型。太陽の光の下に出るのも、夜と同じくらい好きです。



 先日は、“城”のテーマについて、ヘッセとカフカを比較してみました。およそこの2人の作家の、ものの感じ方というか世界観は、好対照ではないかと思われました。

 そこで今回は、“夜”をテーマに比較してみたいと思います。

 夜が大好きだから夜型になるのがヘッセだとすれば、カフカは、夜眠れないので、やむなく夜型になっているタイプだと思います。ほんとうは寝ていたいのに、イライラしながら夜起きている夜型。やはりヘッセとは対照的ですねw

 ちょうどうまいぐあいに、カフカのほうには「夜に」という、そのものズバリの極短編小説があります。翻訳も数種出ていますが、ここでは、原文の細かいニュアンスや“ことばのあや”まで再現したいので、拙訳で読んでいただきます:





「          夜に

夜の底へ落ちてゆく。ちょうど人が考え込むときにしばしば頭を沈めるように完全に、夜のなかへ沈んでゆく。まわりでは人間たちが眠っている。かれらは家の中で、しっかりしたベットの上で、堅固な屋根の下で、手足を伸ばし、または布団に、シーツに、上掛けに頭をうずめて、眠っているのは、とんだお芝居だ、罪のない自己欺瞞だ。じっさいのところ、かれらは昔、またその後も今に至るまで、みなもろともに荒れ地のなかにいるのだ。おおぞらの下の野営、見渡せない数の人間たち、ひとつの軍団、ひとつの民族が、寒天の下、冷たい大地の上、立っていた場所に身を投げ出し、ひたいを腕に、顔を地面に圧しつけて、やすらかな寝息をたてているのだ。しかし、おまえは起きている、おまえは見張り役のひとりだ、おまえは松明
(たいまつ)を振り回して、次の見張り役を、かたわらの粗朶の山……か、騎兵の一隊(Reisighaufen)か……のなかから見つける。おまえはなぜ起きているのか? だれか一人は起きていなければならない、とされているからだ。だれかが居(ダー・ザイン)なければならないのだ。」

フランツ・カフカ『夜に』(拙訳)
 




 「ライジヒ(Reisig)」の語には、「粗朶、柴」「中世の騎馬武者」という2つの意味があります。作者はそれを一種の掛詞にしているのではないかと解釈しました。

 「沈んでゆく」までの、最初の2つの文で、夜眠れない語り手は、自分の取りとめない考察(人間界の観察)の中に入って行きます。そして、不眠の沈思瞑想か、あるいは微睡の夢うつつ状態の中で、語り手の想念のストーリーが展開して行きます。

 カフカには、『観察(考察)』という生前発表した短編集がありますが、この遺作も、そういう“考察”の延長された一齣でしょう。



 他の人間が寝静まった中で、語り手だけが目覚めているという設定は、ヘッセの場合と共通ですが、‥‥しかしこれは、考えてみれば当たり前のことです。“夜”、しかも深夜の時間それ自体をテーマとして文章を書く以上、語り手は起きていなければならないし、ほかの人間は寝ている時間なのです。テーマから当然に要求された設定と言えます。

 語り手はまず、自分以外の人間がみな眠っていることに対して不満を述べます。そして、かれらが自分の家と寝床に安んじて安眠しているのは「とんだお芝居だ、罪のない自己欺瞞だ。」と罵ります。

 ここはヘッセと大きく異なるところです。ヘッセの場合は、ほかの人間がぐっすり眠っていて邪魔して来ないのを、むしろ喜んでいました。



 






 カフカの語り手の想念は、“眠っている人間たち”に対する罵りのあと、旧約聖書に書かれているような荒野の情景へ展開して行きます。聖書に描かれたアブラハムなど、イスラエル民族の祖先の生活は、こんにち、ベドゥイン(アラビア遊牧民)と呼ばれている人々のそれとほぼ同じです。羊、牛などのわずかな畜群を連れ、砂漠~半砂漠のあちこちを移動して、天幕で生活するのです。

 そして、いま都会で、石造建築の屋根に守られて安眠している人々の生活も、その本質は旧約聖書の遊牧民と何ら異ならないのだと、語り手は断定します。ほんとうは、安心して寝ていられるような状態ではないのだ。いつ敵が、また野獣が、襲ってくるか判らない、危険で不安定なものなのだ。屋根のない野天の危険に身をさらしながら、おびただしい数の“民”が身を寄せ合って睡眠をむさぼっているのが、われわれの実存の本質なのだと。

 この「民」を、ユダヤ民族と見ることは可能でしょう。それもひとつの解釈です。あるいは、人類全体がそうなのだ、という解釈もあり得ます。そうすると実存主義になるかもしれませんw しかし、もっと漠然と、作者のまわりにたまたま住んでいる街の人びとと考えたほうがよいかもしれません。ギトンは、この3つめの解釈が好きです。

 どの解釈で行くにしろ、ここで“見張り役”というものが出てきます。危険に身をさらして眠り込んでいる“民”ということから、“見張り役”の存在は必然的であるようにも見えます。

 この“見張り役”とは、たとえば、市長、村長、遊牧民の族長、あるいはカフカの当時のハプスブルク帝国で言えば、皇帝の辞令を受けた代官のような人でしょう。ともかく“民”の上に立って、“民”を保護し治安を維持する役目の人です。しかし、その地位は、世襲の王侯のような安定したものではありません。

 あるいはむしろ、作者のカフカ自身がそうだったように、役所(あるいは会社)の中の中間管理職かもしれません。

 語り手は「見張り役のひとり」と言っているように、“見張り役”になる資格があるのは彼一人ではないし、将来にわたって“見張り役”の地位を保証されているわけでもありません。いつ交替することになるか、わからないのです。

 むしろ、語り手の“見張り役”は、早くこの地位から降りて、ほかの人間とおなじように自分も安眠したいので、代わりの人間を、やっきになって探しているように見受けられます。

 それにしても、なぜ自分は起きているのか?‥見渡す限り、ほかの人間はみな寝ていて、自分だけが起きているように思われるのだが、いったいなぜなのか?‥‥という疑問が語り手のなかに起きてきます。

 そしてこの疑問は、誰か他者から語り手に対して突きつけられた訊問の形をとることになります。「おまえは、なぜ起きているのか?」――交替で、順番だとしても、ほかならぬ今、おまえが起きて“見張り”をしているのは、どうしてなのか? しかも、灯火を振り回して、次の“犠牲者”をさがし出し、その不運な人に自分の役をおしつけてしまうという迷惑な“仕事”まで、おまえがしてくれるのは、いったいなぜなのか?

 問われた“見張り”は、答えます:“おきて”か、神の定めか、はたまた人間の集団としての自然の摂理か?‥能書きはいずれであろうとも、とにかく、誰か一人が寝ずの番をしなければならないのだ、そうすることになっているのだと。それは誰も変えることのできない道理で、いまは、たまたま自分がその番にあたっているのだ、……そう自答して、“見張り役”は、納得しようとします。

 しかし、“見張り”が主張する自らの立場の説明には、どこか綻びが見えかかっていることもまた、作者には感じられるのです。



 『万里の長城』という小説を読むとよくわかるのですが、カフカの小説に決まって現れるこの種の“おきて”や“道理”に対して、作者カフカは、半ばアイロニーをふくんだアンビヴァレンツな眼を向けていると思います。“おきて”を絶対的なものとして読むと、ユダヤ教神学になったり、実存主義哲学になったりします。カフカの死後、20世紀後半には一世を風靡した流行の解釈ですが、カフカ自身はそういうつもりではなかったでしょうし、現在では、はやらない読み方ではないでしょうか?





        夜

 暗くなって鶫
(つぐみ)が鳴き
 夜が谷底からそっとしのんで来る
 燕はどこかで休んでいる;ながく延びた昼の
 時間に、燕たちも疲れてしまったのだ。

 窓から戸外
(そと)へ、そっと洩らす
 やわらかなヴァイオリンのひびき
 きみに宛てたわたしの古いうたが
 夜よ、きみにはわかるだろうか?

 さめざめとした葉擦れが森からきこえると
 わたしの心はぞっと震えて笑う
 しずかにやさしく、抗えぬ力で
 まどろみと夢と夜がわたしをつつむ。



 

 

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