ヘッセのコンサート会場へようこそ!!
まずは詩を! そして、ユンディ・リーのピアノを聴いていただきましょう‥
ノクターン
ショパン・ノクターン、変ホ長調。高窓の
あかりが床にまるい輪をおとしていた。
おまえのきまじめな表情にも
煌々(こうこう)と後光がさしていた。
ひそやかな銀いろの月のひかりが
この夜ほど、ぼくの心にふれたことはない
胸の奥深くで、名づけようもなく甘い
うたのなかのうたを聞くここちがした。
おまえもぼくも無言だった。おし黙った過去が
光のなかに消えた。みずうみに浮かぶ白鳥のつがいと
ぼくらの上の星辰の運行のほかには
生きてうごくものとて無かった。
いま、おまえは床におちた光の輪に踏み入った
まっすぐに伸ばしたうでのまわりには
またその細いうなじには、月のひかりが
銀のふちどりをえがいていた。
ショパン・ノクターン 変ホ長調 作品9-2(ルービンシュタイン)
ヘッセは、ヴァイオリンを弾く趣味があったようです。ヴァイオリンが詩によく出てきます。名器ストラディヴァリウスの詩もあります。ピアノも弾いたんでしょうか?‥ショパンのピアノ曲を扱った詩がいくつかあります。↑これもそのひとつ。
「おまえ」が光の輪に歩み入る――というのは、何を意味するのかはっきりとわかりませんが、カバラのような呪術的な空間に入って行くように思われます。『のだめカンタービレ』の映画に、そういう場面がありました。輪の中に入ると魔法の力を身に帯びて、突然大ピアニストになってしまうのです……一時的にですがw
ヘッセの描く同性愛には、しばしば呪術的な影がさしています。麻薬を用いていることをほのめかす描写も見られます。『デミアン』のオルガン奏者の場面にありました。
↑上の詩では、「おまえ」が腕をひろげて近づいて来るところまで書いて、あとは読者の想像にゆだねているわけです。「うなじ」が光るのが見えているから、抱擁したところまで‥と言うべきでしょうか。
しかし、それにしてもこの曲は有名すぎますね。ショパンのノクターンなら、作品9-1 とか、遺作の cis とか、もっとありきたりでない、シブイのがあると思うんですけどねw
↑ルービンシュタインでお聞かせしたのは、伴奏として聞けるきれいな演奏を選んだから。円熟してまろやか、あたりさわりがないんですね。 “聞いてる人に、音楽が鳴ってるのを忘れさせるようなのが、いい演奏なんだ” と、オーケストラ奏者になった友人が言ってました。ルービンシュタインのショパンなんかは、そういう演奏の第一級かもしれません。
↓ユンディ・リ―の演奏もすばらしいんですが、こちらはピアニストの存在感がありすぎて…自己主張が強くて、ヘッセの・これまた自己主張の強い詩とは、ぶつかってしまって、……詩の伴奏にはなりそうもないのです。でも、音楽として、これだけを聞けば、眼はな立ちのはっきりした、すばらしい演奏です。
現代的な演奏を聴きたい方、また、イケメンのほうがいいという方は――演奏家に顔は関係ないでせうw――、ぜひ視聴してください↓
ショパン・ノクターン 変ホ長調 作品9-2(ユンディ・リ)
雨の夜
屋根のうえから窓の庇(ひさし)から、世界じゅうから
低い単調な雨だれの音がひびいてくる;
それは、のはらのけしきの遠くにまで
くりひろげられたヴェールのように柔らかく
風にゆられて吹き上がり、また下がる
生命なき声、でもそれは生きている。
雨雲がわたってゆく耕地、
また大地に垂れこもうとするおおぞら、
それらは波うち、奔り、なげき、ふるえ、
この低い単調なうたをうたう。
あたかもヴァイオリンの底深い響きが
ひそかな憧れの暗い衝迫を
音色に帯びて鳴りつづけ
ここかしこに人の心をゆさぶるごとく、
いつもひとつの郷愁の国をめざしながら
ひとつの言葉も見いだすことのなかった心を。
人の言葉にも、ヴァイオリンの音にも聴きとれなかったものが
いま声となり、しずかな力となってあふれだす
低く単調な揺籃の拍子(タクト)
風にゆられる雨の夜;
それは、声なき呻吟の苦しみを
暗いうたに溶かし持ち去ってゆく。
ショパン・前奏曲“雨だれ”変ニ長調 作品28-15(ヤン・リシエツキ)
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