昔、鎌倉に来た時は、円覚寺、長谷寺と高徳院の鎌倉大仏と極楽寺の近くの山にある忍性墓にお参りしました。


私が尊敬する僧侶の1人に鎌倉時代に貧民救済に障害を捧げた真言律宗の忍性さんがいます。


ただこのお墓のある場所。


お寺から離れたところにあり、そのお墓のある山が電力会社か?なんかの敷地内になっており、金網フェンスが張り巡らされて近づかないようになっております。


下の方からあの辺がそうかな?


と首を長くして眺めたことを覚えています。


せっかく遠くからお参りしたのに、できませんでした。



さて、今回は源頼朝公のお墓をお参りした後、鎌倉宮へ。


中学生の頃、吉川英治が大好きで、三国志や私本太平記を愛読した私としては欠かせない場所です。


と言いながら、今回たまたま知りました。


白い鳥居が印象的な、なんとここ!


大塔宮・護良親王を祭神としてお祭りする神社というではありませんか!



護良親王さまは、この時代の皇族には珍しく自ら先頭に立って戦場に赴くほど、戦闘的なお方でした。


武人として表舞台に出てくる前は、仏門に入り、比叡山延暦寺の大塔で修行をする出家者の1人でした。


その故に「大塔宮」のお名前が付いている訳です。父親である後醍醐天皇からは、「武が過ぎる」とたしなめられたほどの豪の者だったようですが、遺された遺影はそのようなイメージからは程遠い、髭もない女子のようなお顔の美男子が鎧・甲冑をまとい軍馬を駆る若武者姿で描かれております。


正直なところ、太平記の中の登場人物の中では、1番好きかな?


鎌倉幕府を倒幕するのに大活躍しましたが、後に足利尊氏と対立。かつての味方に暗殺されるという非業の死を遂げます。


鎌倉の土牢に閉じ込められた末に暗殺されたのは知ってましたが、まさかここだったとは……。


昔から来たかったところに導かれるようにして訪れた私。


運命を感じました。



さらにはお手植えの梅。


護良親王の弟君であられました、懐良親王さまが本拠地としていた九州は八代に植えられたお手植えの梅の木を移植したものと書かれております。


懐良親王さまは、兄にも負けず武の誉が高いお方で、九州に派遣されて肥後国の菊池氏を味方につけて一時は九州を席巻し、南朝方の覇権を築かれます。


よって、征西将軍宮と呼ばれます。


南朝が衰退した後も、しばらくの間奮闘し、独自に中国・明とも交易。日本国王の割符を授かるなど独自路線を貫かれました。


伊予国とも結びつきが深く、九州に渡る前は伊予国忽那島などに伊予国内に数年間逗留されたとされ、愛媛県が収蔵する「忽那家文書」にはその頃の懐良親王の書状などが含まれております。


実は、懐良親王もしくはその跡を継いだ良成親王が光蔵寺に逗留したという伝えがあり、そのことにより菊紋と慶寿院の院号を賜ったと伝わります。


事実、懐良親王の名が入った梵網経解題の書状が1通遺されております。地元の人はほとんど知りませんが、住職の管理の元、菊紋のお櫃箱に入って、光蔵寺に代々伝わっている訳です。


良成親王さまは、後村上天皇の第六皇子で、母は越智家栄の女・冷泉局とされておりますが、その実在には賛否があります。


衰退していた時期の南朝方の親王様なので仕方ないかな?とは思いますが、「後征西将軍宮」と呼ばれ、その陵は御所のあった熊本県八代市の山間の中にあります。


八角形の仕切りの中に円墳が築かれており、今でも地元の人たちに護られております。


先ほども申しましたように、光蔵寺にも逗留されたと伝わることから、そのお位牌をお寺の護摩堂の薬師如来さまの前にお祀りさせて頂いております。



お宮さんの建物は、思っていたよりも割と素朴でこじんまりとしたものでした。


うちのお寺が別当だった部落の神社とそんなに変わらないかも?


手を合わせて拍手しました。



その横には、小さな境内末社が。


何々?


撫で身代わり?


護良親王さまの忠臣であった村上義光(むらかみよしてる)公の尊像も祀られております。


この方は大塔宮に付き従って数々の戦場を共にした武将でした。


足利方の軍に攻められて負け戦の折、主君・護良親王を逃がすために親王さまの甲冑を付けてその身代わりとなり、16本の矢を受けた姿で、腹を一文字に掻き切って見事な最期を遂げられました。涙。



そのような由来で、大塔宮の拝殿の側にあって死後も宮さまに忠節を尽くされておられます。


手を合わせて拝ませて頂いた次第です。


何とも、ありがたいことです。拝