雲水ギロウのひとくちエッセイ
つれづれなるままに~ごあいさつ申し上げます~ 

                    



最近どうもブログというのがはやっているということで関連のHPをのぞいてみました。

すると

「ブログ無料!」

と書かれてあったのを見て

ブログってなんや??

と思いながら

「ただ=無料 無料=ただ」……‼︎ 

ということで、ろくに理解もないまま、とりあえず使ってみることにしました。ブログデビューってなんか今っぽくていいですね……。

うちの寺は禅宗じゃないのに「雲水」とか使ったりしてかなりテキトーです。

こころ思いつくままに(たまにきちんとしたのもやると思います……)自己満足の世界に入っていると思いますので、時たまのご来訪をお待ち申し上げます。

since 2004


                           
  








  • 08May
    • 光蔵寺・花だより ムスカリの花の画像

      光蔵寺・花だより ムスカリの花

      (たまたま見つけた青い花の名前はムスカリ)早くもひと月以上前となってしまいましたが、玉川ダム湖畔でひっそりと咲く青い花を見つけました。何だろう?と写真を撮り、後で調べてみると「ムスカリ」という花でした。原産は地中海沿岸や西アジアで、花壇や鉢植え、またはグランドカバー用によく用いられる草花であることが分かりました。どこかで植えられていたムスカリの種が、風や鳥を介して運ばれて、ここに自生したようです。「ムスカリ」とは、よく精力剤に用いられる麝香(じゃこう)のことで、ギリシア語の「ムスク」を語源としているそうです。ムスクの香りと言えば、独特な強い芳香をイメージします。ヨーロッパにおける、約6万年前のネアンデルタール人が埋葬されていた遺跡からは、ムスカリの花が供えられていたことが分かっており、世界最古の埋葬花としても知られているそうです。数ある品種の中で、私が見つけたこの花は「ムスカリ・ボトリオイデス」と呼ばれる小型で、草丈は10~15cm程度の品種でした。イギリス名「グレープヒヤシンス」と呼ばれる花はこの品種に由来します。「ルリムスカリ」という別名で呼ばれることもあるこの花は、美しい淡青で知られており、またはこのような色を「レディブルー」と呼ぶそうです。ムスカリの花言葉は「絶望」「失望」「失意」世界最古の埋葬花であるムスカリ。ヨーロッパにおいて、先史時代より死者への花向けとして遺体の上へ飾られたこの花は、家族や仲間を亡くした悲しみを思わせる花言葉が飾られています。死者への安寧を願う心が込められているとも言えます。さらに、ムスカリの花言葉は「明るい未来」どうしてこのような言葉が充てられたのかは定かではありませんが、亡くなった家族に対して、どこに行っても「明るい未来」があって欲しいとの想いがあったからかも知れません。仏教においても、ジャータカの中で「吉祥天女と貧乏神の姉妹」の説話が描かれていますし、日本でも「禍福は糾える縄の如し」という諺もある通り、悲しみ・絶望・失意と明るい未来は、常に表裏一体・隣り合わせであることを物語っていると言えます。コロナ禍の先には、再び明るい未来が開けると信じて今を過ごしたいものです。

  • 07May
    • 愛媛県美術館 「MINIATURE LIFE展2」後編の画像

      愛媛県美術館 「MINIATURE LIFE展2」後編

      (展示物の中には動いているものもある)「臭かったので草刈った」という題名だとどうなるか?というと……こんな風になります。なるほど。ジオラマの世界と現実の日常の世界の一部をリンクさせている訳です。このような作品が、毎日どのように生み出されるのか?その工程がまとめられているのが下の写真です。作業場の設備を再現したもの。かなり細かな環境で行われていることが分かります。随所にあるイントロもオシャレです。あと展示の仕方もシンプル。私が最も興味を持って観たのが、展示場の中にあったビデオブース。その映像の中では作家さんがインタビューに答えていました。その中で、「アイデアの考え方について教えて下さい」という質問に対し、3つの考え方について述べられていました。これをご紹介します。①「形から入る」②「色から入る」③「モノのカタチを観察してアイデアを考える」冊子にも似たようなことが書いてありました。詳しくはこちらをご覧ください。これは、この作家さんが作品の発想を得る導入として整理すると、「この3つのどれかによって製作していますね」ということです。私はこれを聴きながら、「似ているな」と思いました。何にか?インド、中国、そして日本へと弘法大師が伝来させた真言密教の即身成仏=悟りへの捉え方についてです。中国文化の影響が強い禅教や浄土教に比べ、真言密教は非常に強くインドの臭いを残すものです。この場で細かいことを語るつもりは有りませんが、禅宗の坐禅というものが、自身という絵画から無駄なものや不必要をひとつひとつ削ぎ落とし、真っ白なキャンパスに戻していく作業に似ているのに対し、真言密教の瞑想は、真っ白なキャンパスに5色の原色を混ぜ合わせ、様々な色付けをしながら、その筆の走る音や流しているバックミュージックを聴き、絵の具の匂いを嗅ぎ、汗を拭い取る肌は次第に絵の具で汚れていく程に没頭する、いわゆる、五感を以て感じ取る作業と言えます。密教を象徴する「曼荼羅」や「真言」、「梵字」「悉曇」は、まさにその為にあります。要は、同じ山を登り、同じ山頂を目指しながらも、その登り口が違うという訳です。「一方は削ぎ落としていく」「一方は色付けをしていく」真言密教では、発心(悟り・道を求める心)自体をすでに悟りと捉え、次なる行動を起こしていくすなわち型があり道に至る、という考えを為します。これは「求菩提心」に重きを置く「華厳経」の思想を引き継ぎ、「大日経・金剛頂経」を基にする密教修法のプロセスへと発展したためだ、と考えられます。「長い修行を経て悟りに至る」というのが一般的なイメージでしょうが……上の2つに関して言えば、「修行・日常そのものが悟りだと悟る」「悟りとはこういうものだということを起点に修行・活動をしていく」ということが言えようかと思います。今回の作家・田中達也さんが日々行っている作業、それに基づくアイデアを得る視点も少し重なっている部分があるように感じました。導入時において、型や地図に喩えられる「道」があるからこそ、時には止まり、時には惑いながらも、迷わず目的地までたどり着けるということだけは、確かに言えると思います。そして、その大前提・必要条件になるのは「精進(弛まぬ努力)」なのです。良い刺激を受けました。ありがたいことです。

  • 06May
    • 愛媛県美術館 「MINIATURE LIFE展2」前編の画像

      愛媛県美術館 「MINIATURE LIFE展2」前編

      (ミニチュアライフ展2はユニークなものばかりでした)これももう終わっていますが、特別展「ミニチュアライフ展2」を観てきました。インスタ映えという言葉が飛び交う今日の日本。まさにその王道を行くのが、この作家さん。田中達也さんです。プロフィールによると、ミニチュア写真家・見立て作家。2011年より、日用用品とジオラマ用人形をモチーフに見立てアート「miniature calendar」をネット上に毎日公開して有名になった方です。2017年にはNHK朝ドラの「ひよっこ」のオープニングバックにも採用されています。以前にも、この愛媛県美術館で「ミニチュアライフ展」を開催したところ、大変好評だったため、今回2回目の開催となったそうな。私は今回初めて知りましたが……昨年より引き篭もってますので。今の時代、自分のやりたいことを追求すれば、それなりにやっていける時代となっているのかもしれません。登山隊が雪山の雪原を登っています。拡大すると……これはトイレ🚽⁈そしてトイレットペーパー🧻の氷瀑⁈これが全景です。面白いですね。持っているジオラマ用人形は50,000体以上は雄にあるそうです。作品も去ることながら、もうひとつユニークなのが、その作品に対する題名です。例えば、これは「行楽の秋より食欲の秋 chicken nugget trees」ネットは世界に対して同時発信していますから、ちゃんと英語表記も付いています。大切ですね。これを毎日公開しているというのですから、驚きです。

  • 05May
    • 画廊リブ・アート 「木下晋 個展」の画像

      画廊リブ・アート 「木下晋 個展」

      鉛筆画の第一人者である「木下晋 個展」。愛媛県松山市湊町にある「ギャラリー リブ・アート」にて個展が行われていたので行ってきました。妻の高校時代の同級生が勤めており、いろいろ案内、説明してくれました。パンフレットの絵は、木下晋さんが現在介護しているパーキンソン病の妻を描いたもの。もう終わってます。伊予鉄高島屋前にある松山市駅から歩いて5分くらいのところに、その画廊はあります。初めて来ました。今回の作家さんの個展は、いのちを刻む 〔鉛筆画の鬼才、木下晋自伝〕Amazon(アマゾン)2,060〜8,323円という書籍を出版された記念に全国の画廊を回りながら紹介されています。この本の内容は、木下晋さん自身の自伝です。同級生の店員さん自身も大変興味深く読まれたそうで、いろいろと話してくれた内容が面白かったので、ここでご紹介させて頂きます。この方は富山県で生まれたのですが、戦後間も無くの食糧難、父親は鳶職でほとんど家におらず、軽度の知的障害があった母親は放浪癖があったということもあり、極貧生活を送ります。兄を連れて母親は家出をし、食べ物が無く弟は餓死、自分はコッペパンを盗んで捕まり児童養護施設へ入所するなど、特に母親は今で言うところの「毒親」による児童虐待とも言えそうな感じです。そのような環境の中、ただひたすら鉛筆で絵を描いたていたからか?中学校の頃に彫った彫刻が学校の美術の先生の目に留まり、先生の紹介で富山大学の美術教室に出入りすることになります。その後、ニューヨークに渡り自身の油絵を売り込みにギャラリーを70件近く廻ったものの全然相手にされませんでした。「どうしてなのか?」ギャラリーの主に問いかけると、「あなたの絵は技術的には問題ない。しかし、技術的に上手いだけの作家はいくらでもいる。大切なのは自分にしかない個性だ」と言われてしまいます。帰国後、ある人に自身の生まれ育った環境や母親のことを話すと、「芸術家にとってそれは理想的な環境だ。ぜひそのお母さんを描きなさい」と言われ、 子供の頃何もない家の中で、ただひたすら鉛筆やクレヨンで新聞紙や木の板に書いたことを思い出し、鉛筆のみで表現する鉛筆画を始めることになりました。私はそのような話をリブ・アートの知り合いの方から聴きながら、絵をしげしげと見つめました。自身の母親、東北地方の最後の「瞽女(ごぜ)」と呼ばれる老婆、ハンセン氏病の男性、そして現在介護中のパーキンソン病の妻などをモチーフに選んでいるのが特徴です。大きな紙に鉛筆のみでリアルに、そして精細に書き込まれている、モノクロームに充ちたその絵は、どれも一見暗く苦しみに耽溺しているように見えながら、どこか一筋の光明が差しているようにも見えました。往年の名優であった三國連太郎氏は、私生活において数回の結婚と離婚を繰り返していました。実の息子で自分と同じ道を歩んでいる俳優・佐藤浩一氏について、「私は彼にとって良き父親では無かったけれど、だからこそ彼は良い俳優になるよ」と語ったと言います。芸術家や俳優という生き方においては、何もかもが平凡な幸せに満たされているよりも、何か満たされない部分を背負っていた方が感情の機微を表現できるのかもしれません。鉛筆という最もシンプルな現代の筆記具で人の苦悩と希望を表現する作業はどこか禅に似ているな、とも思いました。始めは誘われるがままに観に来させて頂き、入って絵を見た時には少しギョッとしたのですが、途中からは私を誘った本人よりも興味深く話を聴かせて頂きました。大変良い時間を過ごさせて貰えました。ありがたいことです。祈りの心―木下晋画文集Amazon(アマゾン)4,043〜15,038円生の深い淵から―ペンシルワークAmazon(アマゾン)3,450〜8,642円森のパンダ (講談社の翻訳絵本)Amazon(アマゾン)1,082〜6,039円はじめての旅 (日本傑作絵本シリーズ)Amazon(アマゾン)2,318〜5,999円

  • 04May
    • 野ウサギ出現!とある昼下がりの出来事。の画像

      野ウサギ出現!とある昼下がりの出来事。

      (先月、事務関係をしている部屋近くの山際に現れた野生のウサギの撮影に成功!)どうでもいい話ですが……いつも書類を作ったり、塔婆を筆で書いたりしている裏庭に面した昔ながらの部屋があります。建物は早くも築60年以上を経過しています。そのため、裏山の斜面と隣接するようにして建っており、その間の狭い場所に裏庭が造られています。先月のとある日、いつもながら期日の迫った会の書類を作成していました。すると、視界の斜め前方の石積みの上の方の茂みに何か動きを感じました。なんか、葉っぱの向こうでモシャモシャしているぞ!なんだろう⁈この場所はタヌキの通り道にもなっており、数年前までは昼間でも2〜3匹くらいのタヌキが連れ立ってトコトコと裏庭から山の斜面を上がっていく姿を日常的に目撃していました。タヌキの毛は黒いので見慣れた私にはよく分かります。始めはゴソゴソ動いているので、久しぶりにタヌキが出て来たのか、と思っていました。顔が茂みで隠れておりましたので、始めは分からなかったのですが、よく見ると動きが違うのと、毛が茶色いです。なんか、動物園で見たカピバラ⁈みたいだなと思っておりましたら……茶色い野ウサギでした!そんな驚くほどの事でもないのですが、この場所を含めて、お寺の境内で野ウサギを見たこと自体が初めてだったので、かなり新鮮な想いでジッと見つめてしまいました。これが、昨今よく見かける日本猿や猪、鹿だったら、またかくらいで終わります。(普通は逆だと思いますが……)後で子どもに見せてやろうと、すかさず携帯カメラを回すことに成功!方言丸出しの話し方が恥ずかしいので、アップ⤴️するのを躊躇いましたが、これしか写真も動画も無いので掲載させて頂きました。子どもの要望で、今年の2月頃よりお寺で雌の西洋ウサギを飼い始めたのですが、これが何か影響があったのだろうか?と思っておりましたところ、「早よ早よ、ウサギがおるよ!こっち来て!」との私の小さな叫びを聞きつけてやって来た動物好きの私の父も、「ウサギを飼い出したから、匂いがして出て来たにちがいない」とポソっと言っておりました。ただ、野生のウサギは飼っているウサギよりも身体も大きく、毛並みも荒々しい感じがし、筋骨隆々としていて、小型の草食動物とは言え、いきなり見るとギョッとしてしまいそうな迫力がありました。私が興奮しながら写真を撮っているのに気が付いたのか?こちらをチラ見してしばらく静止したあと、足速に跳び去って行きました。そう言えば、私もウサギ年でした。(関係ないですが)

  • 03May
    • カエルの歌と小さな手の画像

      カエルの歌と小さな手

      昨晩、外でカエルが鳴きました。ここ数日、久方ぶりの雨が降ったったからでしょうか?彼方此方で、ケロケロケロガーガーガーゲーロゲロと声がします。私はここでカエルの大合唱を聴きながら育ったので、もはや少々の鳴き声は耳に入りません。ではどうして気が付いたのか?「お父さん、部屋の中でカエルが鳴きよるよ……」と、怯えた小さな娘がそっと小さな手を伸ばし、ギュっと私の大きな手を握りしめてきたからです。「あれは外で鳴いとるんよ」私は微笑みました。この小さな手の結びつきの中に、私は自身への「信頼」を感じます。それは自分の人生にとって何よりも「確かな」もの。そして、何ものにも変えがたい「充足感」を感じるのです。それは本来、子が親を「信じる」想いの中に疑いの念が無いからだと思います。中身は必ずしも伴っているとは限りませんが、握りしめるその手のひらから無条件に得られる「自分という存在に絶大なる信頼が寄せられている」という実感が、今の自分を活かしていることを知ります。たとえ100億円の札束を見せられ、「私を信じろ」と言われても、本当に心の底から信じられるでしょうか?仏と私が向かい合う瞬間の中に何が大切なのか?おそらく同じことが言えるでしょう。「嘘や偽り、お世辞や疑念のないもの」「相手に対して無条件に与えられるもの」を、私たちはその人生においてどれだけ見つけられるのか?「幸せの定義」はそこにある気がします。(写真は全てフリー画像を使用させて頂きました)

  • 02May
    • 光蔵寺花だより 菖蒲・アヤメの花。の画像

      光蔵寺花だより 菖蒲・アヤメの花。

      小さいけれど、嬉しい知らせ。何か特別な世話をした訳でもないのに……昨年と変わらず紫色の美しい花を咲かせています。アヤメの花です。昨年も同じ頃にアヤメの花を掲載しました。アヤメは菖蒲とも言います。彼方此方の産地では菖蒲祭りが行われていますね。西洋名はアイリス。フランス🇫🇷の国花でもあります。昨年と変わらぬことと言えば、まだマスクをしていること。ゴールデンウィークとは言え、静かに時が過ぎています。今年のご法事は、ほぼお寺です。少人数、マスク着用がスタンダードとなっています。随分と日が長くなりました。それでも19時が近づくと薄暗くなってきます。その頃に撮った写真です。明るい時間の光映えした青さも綺麗なのですが……私は光が陰り、暗闇と同化し始めたころの色が好きです。青色が深みを増し、紫色へと変化します。まさに瑠璃色です。薬師如来の正式名は「薬師瑠璃光如来」です。瑠璃色の光を放っているからです。「朝は観音、夕は薬師」との言葉もある通り、瑠璃色の光とは「再生」を意味しています。残念ながらまだマスクは取れませんが、私たちの生命は常に新たな息吹として生まれ変わっていきます。夕刻のアヤメの花を見て微笑みました。再び、会えぬ人と逢えることを願って。

  • 01May
    • 日曜美術館 「鳥獣戯画展内覧会」に想うこと③の画像

      日曜美術館 「鳥獣戯画展内覧会」に想うこと③

      す本来なら「興福寺 阿修羅展」の如く長蛇の列で賑わうはずだった「国宝 鳥獣人物戯画展」。新型コロナウィルスが再び増加しているために休館となってしまいました。そんな鳥獣人物戯画は「甲乙丙丁」の4巻の巻物の総称です。その中身をザックリと総括しますと、先ずは甲巻。甲巻は当初2巻以上あったとされ、成立年代は平安時代後期頃と言われます。その中身は、秋の風景をウサギやカエルなどを擬人化し、ユーモラスに描いている点に特徴があります。近年の修繕により、その内容に一部入れ替わっている部分や後世の加筆部分があることが判明しました。(動物を擬人化したユーモラスな作品である甲巻)次に乙巻。その中身は、実在する動物及び漠や麒麟などの空想上の動物の生活する様子が描かれています。成立年代は甲巻と同じく平安時代後期頃とされています。(様々な実在する動物や空想上の動物が描かれている乙巻)(実在する動物に加え、麒麟などの空想上の動物が描かれているところが特徴)続いて丙巻。成立年代は上の2つに少し遅れ、鎌倉時代初期頃であるとされています。前半10枚は人々による遊戯を、後半10枚は甲巻の様に動物による遊戯を描いています。京都国立博物館による修復作業により、本来は裏表10枚であったものを、江戸時代に入ってから和紙を薄く剥がし、現在の前半・後半合わせて20枚構成にしたことが判明しました。(人間を描いた前半と動物を描いた後半は本来は裏表の1枚の和紙に描かれていました)最後に丁巻。成立年代は、丙巻と同じ鎌倉時代初期頃であるとされています。人物のみが描かれており、人々が遊ぶ様子や亡くなられた方の法要を営む光景、さらには宮中行事の様子が描かれています。上の3巻に比べると筆のタッチが違うので作者が違うのではないか?と推測されています。(人物のみが描かれている丁巻は、甲乙丙巻と比べて筆跡に違いが認められるらしい)これらの4巻に加え、様々なところに「鳥獣人物戯画」の残欠と思われる断簡が存在します。特に東京国立博物館所蔵のものには、高山寺の朱印がないことから随分昔に切り離されたものではないか?と言われています。このことが指し示すのは、元々この絵巻物には高山寺の朱印は押されていなかったということです。現在のこの絵には、これでもか‼︎というくらい高山寺の朱印が押し捲られています。これは、その長い歴史の中でこの絵がこのお寺から離れたまたは散逸しそうになったことを物語っています。その理由として、もちろん戦乱による散逸もあったでしょうが……1番多いのはそこの住職をしていた者やその縁者による持ち出しです。私もお寺の住職をしていますので、よく分かります。今のように高野山のような大きなお寺の本山と末寺という関係だけではなく、江戸時代に入ると徳川幕府が宗教界にも絶大な統制を効かせるために、近くにその間をとる中本寺という存在を置きました。元来、僧侶は独り身でしたので、縁のあるお寺の住職をしながら、地域のお寺を転々としていました。現在の会社でいうと、本社があり、支店があり、営業所がある感じです。高野山が本社なら、支店が狭い地域をまとめる中本寺、末寺が営業所と考えてもらえたらと思います。(本当は末寺の下の孫寺まである)社員=「小僧」は頑張り次第で、営業所長=「住職」になります。今度は営業所長の中から支店長=「本寺の住職」が選ばれます。しかし、実際にはこのような単純な構図では無かったようです。実際には、時の流れの中で本寺の住職は隠居の老僧のような人がする名誉職のようなものになったりと、実情はかなり複雑だったようですが、問題は営業所長です。営業所長時代にいたところに、価値ある宝物があった、或いは自分で設備を揃えたとしましょう。次の支店長になりたい営業所長は、現在の支店長に「これは本来、ここにあるべきものではありません。本寺にて保管すべきものです」と言って、その価値あるものを上司に付け届けすることもあったかもしれません。しばらくして、支店長に任命された営業所長。「これは私が営業所長時代にがんばって自分で揃えたんだから」と、お気に入りの宝物を、次の赴任場所である本寺へと一緒に持って出てしまうこともあったと聴きます。このように考えますと、高山寺のような本寺ではないお寺に明恵上人ゆかりの宝物がたくさんあることは奇跡です。しかしこれまで、その長い歴史の中では、散逸してしまったものを懸命に取り戻してきたという紆余曲折があったことと思われます。もし次に散逸することがあっても、これは本来「高山寺」のものだということを証明できるようにとの願いが込められていることを、押されたこの朱印の多さが物語っています。さて話が逸れましたが、結びとして、私の稚拙な推論を述べさせて頂きます。マンガのようにコミカルかつユーモラスに描かれている平安時代末期から鎌倉時代初期頃に描かれたものは、他に類を見ないとは言え、彩色なしの単なる墨絵が国宝にまで指定されたのはなぜでしょうか?京都にあるとは言え、昔の平安京からは遠く離れた山間部にある小寺である高山寺。その名を世間に知らしめている幾つかある要素の中の最大のものは、この「国宝・鳥獣人物戯画」です。これが歴史の教科書などに掲載されていることから、お寺の名前は知らなくてもこの絵は多くの国民に知られています。もし、この絵がその辺の民家にあったならば国宝にまでなったかどうかは分かりません。国宝に指定された理由のひとつとして、「高山寺にあったこと」が挙げられます。洛外の小寺である高山寺は、「文化財の宝庫」と呼ばれています。鳥獣人物戯画をはじめとする絵画、仏教関係の典籍、書物、仏像や動物を模刻した彫刻、そして石水院のような建築物を合わせた多岐にわたる膨大な量の宝物が、国宝や重要文化財に指定されています。これはひとえに、中興開山であった明恵上人の類い稀なる才能によります。緻密な記録癖、物の価値がわかる収集癖、整理された膨大な書物、上人の人柄を偲ばせる様々な遺物など、これらの多くの物に他にはない特別な価値が認められるからこそです。高山寺のような小さなお寺が今日まで続いてきたのは、まさに明恵上人のご遺徳のお陰だと言っても過言ではありません。前回で、明恵上人の御人柄について様々な角度から想像してみました。真摯な姿勢の中にも柔和さが、真面目な人柄の中にユーモラスさや遊び心が見受けられる人物であったことが想像されます。結論から言いますと、私はこの絵を描いたのは、明恵上人及びそれに準ずるような縁者の方ではないか?と思っています。「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)と云ふ七文字を持つべきなり」というのが明恵上人のお言葉のひとつです。この考えからこの絵を観ますと、「ウサギはウサギのあるべきよう、カエルはカエルのあるべきよう、サルはサルの、ヒトはヒトのあるべきようは」ということにもなろうと思います。「平等」とは本来は仏教の経典に出てくる言葉です。この言葉の意味は、現在のリベラリストの方々が声高に叫ばれるような姿形や立場や収入や性別にまで及び求められるようなものではありません。経典における「平等」とは、個々の違いを同じにすることではなく、むしろ個々は違っていても、その1つ1つにおける価値は等しいという意味です。そのような思想に至る根底には、「同体の大悲」という考え方が根拠として成り立っています。これを要約して言いますと、「私たちは互いを生かし生かされしながら、同じ1つの生命として成り立っている」ということです。だから「同情心」が必要だということです。コミカルに描かれながらも、命の姿を真摯に浮かび上がらせているこの絵には、時には皮肉も交えながらも、「本来のヒトのあるべきよう」を考えさせる役割が担わされているように思えるのです。身分が高いだけで、形ばかりの僧侶や京都の公家衆が、これを観たらどう感じたでしょうか?古今東西、仏教の小難しい話は多くの者には受け入れがたいものです。そのような人への導入として、この絵は描かれたのではないでしょうか?「最初は人ごとのように笑いながら興味深く眺めていた目が、やがて真剣な眼差しになっていく」もしかしたら、そのようなことがあったかも知れません。あらゆる人々がお釈迦さまのお心に触れてくれますように明恵上人のご遺徳を偲ばせる逸品だと言えます。

  • 30Apr
    • 日曜美術館 「鳥獣戯画内覧会」に想うこと②の画像

      日曜美術館 「鳥獣戯画内覧会」に想うこと②

            (国宝・明恵上人像は弟子の慧日が師の姿を写したものと伝わる)さて、「鳥獣戯画」を考えるうえで避けては通れないのが、所有する高山寺の住職であった「明恵房高弁」です。このお方の生涯は、すでに多くの研究者や執筆家が書籍やネット上に文章を挙げられておりますので席を譲ります。鳥獣戯画はなぜ生まれ、そして高山寺にあったのか?そのことを主軸に、明恵上人のお人柄を端的に表すものを取り上げながら私説を述べたいと思います。まず明恵上人は、私の尊敬する僧侶の中のひとりです。おそらくは日本におけるその長い仏教史の中で、出家した時から生涯を通じて厳しい戒律を維持されたであろうことが想像されるお方だからです。そのような明恵上人のお人柄を表すようなお言葉として次のようなものがあります。①明恵上人の言葉にみる特徴「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)と云ふ七文字を持つべきなり」僧は僧のあるべきように、俗は俗のあるべきように、臣下は臣下のあるべきように、今生きているこの世を誠実にを生きるべきだという意味です。まさにお釈迦様を心から慕っておられた明恵上人の真摯さを指し示すものですが、私が着目するのは7文字の筆記の仕方です。○仮名文字を使わずわざわざ漢字を用いている○漢字を万葉仮名のように用いていることから、仏教のみならず日本の古典にも精通していることを感じさせる○さらに漢字を万葉仮名のように用いながらも、その実その1字1字に仏教的な意味合いを重ねながら配列している本来なら堅苦しく思われるような文言に万葉仮名を当て嵌めることにより、より言霊を込めた呪文であるかのような印象、さらにユーモラスさすら感じさせる発想に、宗旨に捉われない万人に受け入れられる仏の教えとは?との考えを追求された上人の想いが込められているように感じます。②明恵上人の生い立ち明恵上人は、平重国の息子として紀伊国有田郡石垣荘に生まれました。幼名は薬師丸と言いました。1180年、8歳の時に母が他界します。さらに同年、源頼朝を討つべく東国に向かった父・重国は上総国で討死しました。このため孤児となってしまった明恵上人は、9歳で叔父の上覚を頼り京都高雄の神護寺に入り、文覚上人に師事しました。両親を亡くし、幼くして仏門の道に入ることになった上人は、同じく早くに母を亡くされたお釈迦さまにその想いを重ね合わせたかもしれません。③明恵上人の仏教観明恵上人の信仰の特徴としては、その純粋な「釈迦信仰」にあると言えます。仁和寺で真言密教、東大寺で華厳宗、倶舎宗を、栄西から臨済禅を学びます。23歳で俗縁を断って神護寺を出て、故郷である紀伊国有田郡に遁世します。故郷の浜辺で石を拾い大事にしたと言います。海は遠い天竺(インド)と繋がっている、もしかしたら海の砂は長い年月をかけて流れ着いたお釈迦さまの舎利のようなものかも知れない、との想いからです。お釈迦さまが居られた当時の純粋な仏教に憧憬の念を持たれたのでしょう。2度、インドまで旅して本当の仏跡を巡礼する計画しています。資料の少ない時代、中国そしてインドへ辿りつくまでかかる日数と距離を詳細に調査しています。しかしながら、奈良・春日明神の「離れてはならぬ」という御神託により断念しました。さらにお釈迦さまの仏弟子でありたいとの想いを表わしているエピソードとして「右耳切断」があります。「いよいよ形をやつして、人間を辞し、志を堅くして如来(お釈迦さま)の跡を踏まむことを思ふ。然るに、眼をくじらば聖教を見ざる嘆きあり、鼻を切らば洟垂りて、聖教を汚さん、手を切らば印を結ばむに煩ひあらむ。耳は切るというとも聞えざるにあらず。しかも形を破るにたよりあり」世俗と離れる時に頭を丸められたお釈迦さまに倣って、仏眼仏母尊の前で自ら右耳を切り落とします。右耳切断と言えば、西洋の画家ゴッホを連想します。ただ、彼の場合は友人の画家ゴーギャンと口論となり、共同生活が破綻したことからアブサンを煽って怒りの末の凶行であったと言われています。明恵上人の右耳切断は、昔、ペルシャの地から中国へやって来た達磨大師が面壁九年の行をなされていました。そこへ神光という僧侶がやって来て入門を乞いますが、幾たびも断られ続けました。そこで不屈の想いを示そうと、自ら刃物で臂を切り落とし、入門の意志が強いことを示しました。入門が認められたその僧侶は、二祖の慧可となったそうですが、その故事を地で行くような、明恵上人の、「お釈迦さまの弟子となり、必ず悟りを開くんだ」という、強い決意の表明であると受け取れます。法然上人が、「菩提心が無くとも、念仏をしさえすれば弥陀の浄土へと生まれ変わる」と選択本願念仏集にて説かれた際には、催邪輪を著して「先ず求菩提心が無ければ悟りの世界へは至れない」と反論しました。しかし、2人の交流はその後も続いたと言います。その他、弱者救済のための社会事業に携わる、数十年に亘って「夢日記」を綴るなど、純粋に仏法を求める意思の強さと同時に多彩な活動の中に優しさを感じさせるものがあります。特定の宗旨に偏らず、自らの求めるところに応じて様々な教えを学んでいる明恵上人の仏教観は、純粋さを持って「菩提と慈悲」の実践を目指したものであったと言えます。今でいうところの原始仏教に基づきながらも、日本人にある古来からの宗教観にも沿いながら日常の生活の中に溶け込むものであって欲しいという、非常にバランス感覚に長けた考えを持っていたのではないでしょうか?④文化人としての明恵上人明恵上人は和歌を多く残しています。「和歌はよく詠まんなんどするからは、無下にまさなきなり。ただ、何となく読み散らして、心のまことにすきたるは、くるしくもなきなり」。和歌は上手く詠もうとするのではなく、自らの想うままに詠めば良いのだ、ということです。「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」「むらさきの 雲のうえへにぞ みをやどす 風にみだるる 藤をしたてて」 仏教に対する真剣な姿勢を考えると、どんなに真面目で堅苦しいものであろうと考えてしまいますが、上人の和歌は非常に柔らかく、そして示唆に富んでいます。柔和さとは、真の意味での強さであることを悟らせてくれます。下の和歌は、私の意訳だと「藤の花を風にたなびかせながら、私は仏の世界に住している」という風に受け取れます。藤は子孫繁栄を象徴する植物ですが、主に藤原家の家紋の植物でもあります。上人の母親は、湯浅宗重の四女だと言われています。湯浅家は藤原北家流の家柄であったことから、藤は上人の母親に対する想いを乗せているのではないでしょうか?そう考えますと、2度のインド渡航を断念する理由となった春日明神(春日大社は藤原家の氏神)の御神託も、ある意味で母親の声、母に対する想い、であったとも言えます。1番上の「国宝 明恵上人像」ですが、一風変わった構図となっています。弘法大師の肖像画(御影)も同じく斜め45度から描いた構図となっています。これは、弟子の高岳親王が障子の隙間から弘法大師を覗き見て描いたと言われる所以ですが、基本的に日本の肖像画の多くはこのような構図となっています。中国の場合は、皇帝の姿などを真正面から描いたものが多いように見受けられますが、自身の肖像画を描くような思い上がりのある人間ではないんだという、日本人の中にある恥の文化によるものではないでしょうか?明恵上人像も同じく斜めより描かれてあることから、切断したと思われる右耳は見えなくなっています。この絵が他の多くの日本の肖像画と違う点は、背景画が附属されている点です。特に、その背景の筆の線使いなどは繊細・精密というより、割とダイナミックに躍動的に描かれているように思います。一言で言うと、「乙」な作品に仕上がっているとでも言いましょうか?しかもよく見ると、隠し絵のように、木の枝には可愛らしい栗鼠が描かれていたり、小鳥が飛んでいたりして、単なる偉い人の肖像画とだけは言えないようなユーモラスな構図となっています。さらに、私の勝手な思い込みかも知れませんが、上人の少し上の方に、何やら帽子(僧侶や尼僧が頭にかぶる布切れ)をかぶいた人物の顔のように見えるところが見受けられます。私の目には、あの世に旅立って仏門に帰依しながらも、側で我が子を見守る母親のようなお顔に見えて仕方がありません。長々と述べて参りましたが、以上の言葉、行動、考え、肖像画などをサラッと見ただけでも、上人がただ真面目なだけの堅物ではなく、 非常に情感豊かで、柔らかくも芯の強い、激しさと同時にユーモラスさ・遊び心を兼ね備えたお方であったということがよく分かります。これらを踏まえた上で、「鳥獣戯画」を見てみたいと思います。

  • 29Apr
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      日曜美術館 「鳥獣戯画内覧会」に想うこと①

      特別展 国宝鳥獣戯画のすべて NATIONAL TREASURE:FROLICKING ANIMALS特別展 国宝鳥獣戯画展の公式ホームページです。東京国立博物館 平成館で2020/7/14〜8/30まで開催。chojugiga2020.exhibit.jp4月13日より上野の東京国立博物館平成館にて開催されていた「特別展 国宝鳥獣戯画のすべて」再び増加傾向にある新型コロナウィルスのために25日より臨時休館を余儀なくされました。それは仕方ないのですが、開催を記念してNHK教育で放送された、「日曜美術館」の「生放送 鳥獣戯画スペシャル内覧会」を見ました。今回の特別展では、全4巻からなる全長44メートルのこの戯画を、広い空間に巻物を開いた上で、全画を自動歩行器の上に乗り、流れるようにして鑑賞できるようにしていました。私も学生時代を含め、これまで3〜4度ほどこの鳥獣戯画を所有する、京都栂尾の高山寺へは足を運んだことがあります。元々は近くにある京都清滝の神護寺の奥之院のような存在としての分院であったところが廃れていたのを、鎌倉時代の傑僧・明恵上人が中興開山したところであります。また、日本で最初にお茶の栽培を行われたところとも云われ、このお寺のお茶の木で採れた茶葉を「本茶」と呼び、日本におけるお茶の「発祥の地」として知られています。余談ですが、この高山寺に住まう寺族の方は私の父親方の遠い縁戚でもあるそうです。ただ、付き合いなどは全くありません。このお寺は現在は単立寺院となっておりますが、最近までは真言宗御室派の寺院でした。私も初めて高山寺に訪れた時には、宝物館でこの「鳥獣戯画図(レプリカと知ってガッカリした覚えがあります)」を繁々と眺めたものの……2度目以降は流すように観るだけで、むしろ紅葉の木や庭などを興味深く観ておりました。この鳥獣戯画ですが、京都の鳥羽に居た「覚猷」という風刺画が得意だった僧侶が描いたという説があるのですが……実際には何も分からない謎だらけの巻物なのです。そのようなことについて、これまで多くの研究者が様々な推測や仮説を立てていますが確かなものはありません。ある程度分かっているのは、平安時代末期〜鎌倉時代初期の頃に描かれたであろうということ。そして、この「甲乙丙丁」の4巻揃え以外にも、その断簡だと思われる紙片が、高山寺以外の所々に散見されることです。この鳥獣戯画が何故この高山寺に伝わったのか?を考える時、このお寺の中興開山・明恵房高弁上人について詳しく知る必要があります。

  • 28Apr
    • 4月27日 満月のピンクムーンに手を合わせ。の画像

      4月27日 満月のピンクムーンに手を合わせ。

      (昨日の夜、窓際からふと明るく輝く空を見上げると雲の隙間から満月が顔を覗かせていた)窓際に座っていたところ、なんか空が明るいな?と思い、空を見上げてみました。すると、風で吹き流れ模様が変わる雲の陰影を照らし出しながら、満月が後光を伴って光り輝いていました。調べてみると、4月27日(火曜日)は4月の満月の日でした。最近だと思いますが、「ピンクムーン」と呼んでいる人もいるそうです。それを知り、「ピンクムーン⁈」よく見たらピンク色に輝いているのか?とジッと見つめてみます……いや、やはり真っ白に光っている。それもその筈、ピンクムーンという名は、多くの花々が咲き誇る4月、「春の満月」という意味らしいです。なんで英語なんだろ?とかく人は、「これは他のものとは違う特別なもの」だと思いたいところがあるのは確かです。私は何色に光っているか?よりも、こんな真っ暗な夜でも、「太陽の光はやはり私たちを照らしてくれている」ということを実感させてくれる、その柔らかな「遍照」の輝きに、仏の慈悲を垣間見た気がしました。携帯カメラで、「まん丸お月様が綺麗に撮れないか?」と、一生懸命がんばってみましたが……この大きさが精一杯。苦笑い。納得のいかない出来は、自分の腕ではなく機械の精度のせいだといいうことにして、颯爽と就寝することにしましたとさ。

  • 27Apr
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      バイデン大統領の演説「1本の釘」に思う。

      (たった1本の釘の大切さに私たちはまだ気付いていないのかも知れません)4月、コロナ禍の中を菅義偉内閣総理大臣がアメリカ合衆国を訪問し、日米首脳会談が執り行われました。出迎えの慣例事項が省略されていたとか、ハンバーガー🍔についてどうだ、と様々な推測がなされていましたが……それはさておき、その時にアメリカのバイデン大統領が半導体政策について述べられた演説の中で心に残る言葉がありましたのでご紹介します。産業のグローバル化が進む中で、アメリカにとっての軍事・経済の最重要事項の1つとして、常に主導権を握ることが求められる「半導体産業」。その半導体に関して、バイデン大統領がその重要性と施策のこれからについて語られた訳ですが、その時に半導体の重要性についての喩えとして用いたのが、建国の父の1人とされるベンジャミン・フランクリン言葉でした。バイデン氏は、世界における半導体の主導権を握るために急速に動きを速めている中国の5Gを念頭に、ホワイトハウスに超党派の議員を集めこう述べました。「1本の釘がなくなり蹄鉄が駄目になった」と。ベンジャミン・フランクリンは、現在のアメリカのドル紙幣の100ドル札💵に人物画として描かれています。バイデン大統領は、「1本の釘がなくなり、蹄鉄が駄目になった。蹄鉄がなくなり、馬がどうしようもなくなった。馬がいなくなり、騎士はどうしようもなくなった。騎士がいなくなり、戦いはどうしようもなくなった」と、フランクリンは語ったという言葉を用いて今の我々にとっての半導体は正にこの「1本の釘」だと述べたのです。これは国策としての半導体への認識を述べられたものですが、私が自身の立場から感じるのは、現在の日本の国についても同じことが言えるのではないか?ということです。私たちは1人1人が、正にこの「1本の釘」です。東京などの大都市であれば、人の替えも自ずと効くかもしれませんが、人口の流出超過の地方においては必ずしもそうであるとは限りません。郷土という言葉の持つ重みは年々軽くなっているように思いますが、特にそこに生まれた者はそこにとって替えの効かない「1本の釘」です。「1本の釘くらい、私1人くらい、私の家1軒くらい」と思っていると、いずれは「部落が、村が、また町が、そして国全体が」傾いていくことになります。地方はすでにそのような状態になっておりますが、そろそろこの辺りで一歩踏み止まり、我が人生を見直して見る時期に入ったのではないでしょうか?私たちの心構えの変化1つで、郷土の、町の、そして国の傾きが止まるのか或いは離散・消滅してしまうのかが決まると言っても過言では有りません。正に瀬戸際だと言えます。

  • 26Apr
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      光蔵寺花だより 西洋皐月・アザレアの花

      皆さま、おはようございます☀昨日もそうでしたが、今日も快晴で気持ちが良いですね。霧島ツツジはあっという間に枯れてしまいましたが、皐月(サツキ)の花がたくさん咲いています。前からよく思うのですが……ツツジとサツキはどう違うのか?よく分からないままにやり過ごしてきた感がありますので、改めておさらいしてみました。葉の大きさや触った時の感触の違いも言われますが、これだけ種類が多いと個別種によって異なる場合もあります。1番大きなざっくりした見分け方としては、開花時期が1つの基準と言えます。ツツジは4月初旬から咲くものが多いですが、大方は4月中には散ってしまいます。サツキはその名の通り、4月〜5月頃にかけて咲き続けるために、「皐月」という和名が付きました。元来、高山の岩肌などの乾燥して養分が少ない土壌でもしっかりと根を下ろして美しい花を咲かせる、その強健さから花言葉は「節制」という言葉が与えられました。私も知り合いのお寺さんで、石鎚連峰の岩肌の一角に咲くリンドウのような生き方をしている人を知っています。サツキは、古来日本人にも縁の深い花であり、万葉集などにも登場します。昔は「岩ツツジ」や「皐月ツツジ」と呼ばれたツツジ属の花です。上のピンク色の濃淡が美しいのは、「アザレア」という西洋サツキです。アザレアの言葉は、ラテン語の「乾燥」が花名の語源となっています。節制の花言葉以外に「禁酒」という花言葉も付けられています。ちなみに、花言葉の「節制」は先ほど述べたのと同じように、「枯れた土地」のことを表しているそうで、「禁酒」は、英語で禁酒することを「ドライ=乾燥」いわゆる「飲まない」ということに由来するといわれます。そのことから考えると、アサヒビールのメインブランドである「アサヒ スーパードライ」は辛口というイメージを持っていますが、西洋人がもつ言葉のイメージ通りに解釈すると、「アサヒ 絶対禁酒」「アサヒ 絶対飲まない」という意味になってしまうことを考えると、少々苦笑いしてしまいますね。花言葉「禁酒」そんなこと言っていたら、アサヒビールさんに睨まれますね。お隣の愛媛県西条市にアサヒビールの工場がありますので、地元に貢献する意味も含め、アサヒビールを皆さんよろしくお願いします(笑)私などは飲んだ方が、カラカラに乾燥してしまいますが……。上のように濃いピンク色もあれば、薄い桜色もあり、はたまたその両方が混ざったようなものもあります。サツキは今が盛りです。だいぶ減った感がありますが、熊蜂や蜜蜂がぶんぶん羽音をさせながら花の蜜を集めています。これはこれで、この時期の風物詩ですね。梅雨前のこの時期、確かに雨が少なくて少し乾燥しているかも。偶然ではなく、条件が揃う時期が来たら咲き、過ぎたら落ちる。私もいつの間にやら、人生の巡りが晩夏から初秋へと差し掛かってきました。与えられた役割を粛々とこなしていきたいと思います。

  • 25Apr
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      令和3年度金剛講愛媛地方本部支部長会に想う。

      この度、4月23日金曜日に高野山今治別院において「令和3年度 高野山金剛講 愛媛地方本部 支部長会」が執り行われ出仕致しました。現在、私は事務局を務めさせて頂いているため、必ず出席しなければならないのですが……まずもって、金剛流御詠歌とは何か?と言いますと、昔の西国巡礼や四国巡礼から発生した巡礼歌を発展させて讃仏歌としたもののことです。金剛講というのは、この御詠歌をしている人達の集まりを組織したもののことを言います。金剛講総本部は高野山にありますが、その末端組織の1つとして愛媛地方本部があり、支部長会というのはいわゆる、年に1度行われる愛媛の金剛講の総会のことです。15年ほど前までは、御詠歌が好きで続けられてきた年配の方々が大勢いらっしゃったのですが、高齢化が進み、反対に新規で入門される方は少なくなっているために、年々講員数は減少傾向にあります。そのような中、地方本部の存続および体裁をこれまで通りに保つために現行続いている支部には多大なる負担がかけられてきました。3年前にこの会の事務局を仰せ付かった時より、「地方本部を継続しながらも、現在残って続けている各支部に対してかけられている重い負担を何とか軽くしたい」との想いを、心の中でずっと持っておりました。現在の総監さんと共に、総本部に確認・協議、他の四国内の地方本部にも相談し、地方本部の会計における収入・支出をシュミレーションし、その他のことも含めて検討してきた結果、正にこの3年目の支部長会において、参加者の皆様の賛同を得て、付加金の減額を議決する運びとなりました。ようやく、以前から思っていた念願が果たせたことで、個人的にはとても感慨深い会となりました。もちろん、講員数の減少という問題に対しての根本的な問題解決には直接関係しませんが、それでも現在残って続けられている支部さんに少しでも長く続けて貰うための一助、延命策としては多少の意味を成すものだと思います。本当はもっと早い時点で、変えるべきだったのでしょうが、今までいろいろな理由があって変えられなかった訳ですから、「変えられなかったことが変えられた」という意味では、「小さな1歩は大きな1歩である」と言えるかも知れません。この御詠歌の世界に限らず、これまでのものを取り巻く環境は大きく変わってきています。例えば、資源のない日本にとって最後の砦とも言える自動車及び内燃機関に携わる業界。世界で一番売れているEV「モデル3」を日本市場でのみ価格破壊!「156万円爆下げのテスラ」は、買いか? (週プレNEWS) - Yahoo!ニュース世界を席巻する“走るスマホ”、テスラ「モデル3」 - Yahoo!ニュース(週プレNEWS)news.yahoo.co.jp今度、アメリカの電気自動車メーカー・テスラが、自社で最も販売台数が多い「モデル3」を世界3位の自動車販売市場である日本において、「最大156万円の値下げ」をして販売するそうです。なぜ、そんなに値下げができたのか?そのひとつの理由として、内臓する蓄電池を、パナソニック製から中国製や韓国製の蓄電池に変更したからだそうです。特に、中国は国を挙げて電気自動車の普及を推進しており、政府からの手厚い支援により、莫大な助成金などが企業や市場に投入されています。電気自動車には、内燃機関・エンジンが有りません。だからこそ、内燃機関の開発や運転における安全性などの技術に遅れをとる新興国は、自らが次世代の自動車産業の覇権を握るために、国を挙げて電気自動車を推進しようと努力している訳です。これが世界的に急速に進むと、突然吹いた突風により、旗の表と裏が逆転することがあるように、最後の砦である日本の自動車産業が、かつて輸出産業の花形であった電気産業のように、ある時を境にして急速に瓦解していく二の舞を舞うことになる可能性も充分にあり得ます。これまで、①ガソリン車においての多数の技術を培ってきたこと②エンジンを始めとする内燃機関の設計・製造に携わる就業人口が多いこと③税金だらけのガソリンや軽油に政府へのよる大きな税収などの理由から、日本政府としては電気自動車に対しての緩やかな推進を望んでいる訳です。しかしながら、グローバル化がすでに進んでいる自動車産業にとっては待ったなしの状況であると言えます。第二次世界大戦の頃の英国首相であったチャーチル首相が、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言ったことは有名ですが、このように、今までの利点や強みであったものが、放っておいた小さな隙間から流れ込む水のために、逆に重しとなって溺れ沈んでしまうということは、世界史や日本史の中において決して珍しい話ではありません。むしろ、そのような事象の連続だと言えます。何を捨てて何を拾うか?これからの方向性と対策に関して、日本政府と業界トップの早急な判断が求められています。再び話を戻しますが、お寺やそれに類するものを取り巻く環境においても、これと同じことが言えます。今までがこうだったから、先代はこんなことしていたから、といって、取捨選択すること無く、その全てを無作為にそのまま続けているだけでは、手間暇も出費も嵩み、人心も離れていく一方です。増してや、「将来のために」と言ってお金や建物ばかりを残しても、人と人を結ぶ縁が途絶えてしまっては意味がありません。戦国時代の武将、甲斐の虎と呼ばれた武田信玄公が、「人は石垣、人は堀」と言って、昔からの躑躅ヶ崎の居館を改修しながら住み続け、他国のような天守閣がある大きな城を造らなかった話は有名です。先ずは人、そして今あるもの・受け継いできたものを大切に保ちながらも、古くなり時代に合わなくなった部分に関しては速やかに適切な処置を施していくことが求められています。仮に倒れるとしても、次の世代の人たちにとっての肥やしとなるようなものにしなければなりません。体裁を気にして、立ち枯れすることのないように努めていきたいものです。

  • 24Apr
    • 徳島県穴吹町 住職手造りの石垣のある本楽寺を歩く③の画像

      徳島県穴吹町 住職手造りの石垣のある本楽寺を歩く③

      (後ろから見ると懸造りの本堂であることが分かる)石庭を眺めながら、本堂を正面から見た時には気付きませんでしたが……お堂の半分はこのように崖の上に迫り出しています。これは清水寺の舞台造りと同じ懸造りと呼ばれる伝統的な工法です。先代住職が庭と共に、このようなお寺にしようと考えて為されたならば、よほどこのようなものに造詣が深かったのだと思います。境内をウロウロしながら見ていますと、下の線路沿いで重機を動かしていた人が上まで登って来られました。こちらから……「もしかして……ご住職さんですか?」とお聞きしたところ、「はい、そうです」との返事が!?京都の有名な作庭家の先生が主に境内整備を指導されているそうですが、普段は住職自らその方にいろいろ聞きながら石積みなどの出来るとこをなされているとのこと。境内には元々、岩盤の山際が迫り出していたらしいのですが、住職自ら重機を駆り出し山を削って平らにし、そこから出た石鎚山のような緑石を積み上げたそうです。何か建てる予定なのか?整地され石垣が積まれています。始めは集中豪雨のために土砂崩れしたのかと思っていました。今は先代さんに続いて、私より少しだけ若い息子さんが住職となり、石積みや作庭を引き継いでおられるそうです!ここまで自身でやり続けられるくらいなので、どんな職人気質な、堅気な、ストイックな方なのか?と思いきや、ざっくばらんで気さく過ぎるくらい気さくなお方でした。多くは申し上げませんが、かなり強烈な個性をお持ちのお方です。庭以上に、いろいろな意味で驚き桃の木🍑でした。いくら自前で重機を持っているとは言え……ここまでよく崩したもんだ!一歩間違えば危ない作業です。今も境内整備が続いているようで、端の方には鎮守堂と護摩堂が建てられていました。私をここに連れて来て下さった愛媛のご住職さんは、「ギロウさん、これ一意(1人の寄付者)建立やで‼︎」の文言を連発していました(苦笑)見るとこ……そこ?基礎だけでも、自分で出来たらええなぁ。お寺の裏山から産出される石で、コツコツと丁寧な仕事が為されています。今、庭師さんでもここまで角取って直線的に積める人はたくさん居ないのではないでしょうか?この後、茶室を案内して頂きまして、お抹茶とおひがしと干柿までお接待して頂き、いろんなお話を聴かせて頂きました。こんなパンフレットもお作りになられていました。四国は狭いと思っておりましたが……まだまだ知らない世界が広がっていることを実感しました。いや〜この日は、久しぶりに、若い頃みたいにまだまだ自分の好きなことを追求しても良いんだ!というような、新たなインスピレーションが降りて来るのを感じた1日となりました。本楽寺さま、大変ありがとうございました。ありがたいことです。拝

  • 23Apr
    • 徳島県穴吹町 舞台造りのある本楽寺を歩く②の画像

      徳島県穴吹町 舞台造りのある本楽寺を歩く②

      (客殿の背後には巨大な岩盤が横たわり、その上には近年造られたであろう茶室が建てられている)客殿と本堂に挟まれた石庭を堪能する……間も無く、知り合いの御住職にこっちも見てくれと案内されました。客殿の裏には巨大な岩盤が剥き出しになっていて、この山の地層をよく表していました。その上には茶室が建てられており、そこに続く山肌には苔むす参道が造られていました。後で知ったのですが、ここのお寺の庭園は、京都の有名な造園家の先生が造られたそうです。見事に苔が付いています。これなかなかつかんのよね。徳島県とは思えない、京都のお寺のミニ版のようなお庭です。元の地形や自然素材を活かしています。これはなんじゃろ?韓国のトーテムポールみたいなやつ?上がって左側には先程の茶室に進む露路があります。眺めがええのう〜吉野川とよく合うね♪途中、立看板が。何々?茶室の名前が「一二三庵?」何でも寺の住所の番地が「123」であったことからこの名が名付けられた?何とも今時やね。きっと若い住職に違いない。山の水を利用して小さな滝と滝壺と小川が流れています。参道脇には山の石を利用したと思われる石垣が連なっています。自然石を丁寧に角を付けながら積んでいるのがよく分かります。山の上まで登ってみることにしました。山頂には何やら石積みと基壇のような跡がありました。昔、山頂に何かあったのだろうか?私はこのような跡には敏感に反応します。見慣れているので、見たらピン!と直ぐ分かります。見晴らしええなぁ〜。ずっと見ていたい感じです。よく見たら……本堂の後ろ半分、岩盤の上に迫り出してるがな!凝ってるなぁ。これは「懸造り」という日本建築の工法です。固い岩盤の上に木造の支柱を伸ばしてバランスを取り、上の建築を支える工法で「舞台造り」とも言います。京都の清水寺のような舞台を造るつもりでしょうか?よく見ると……岩盤の上に支柱のない基礎石がすでに配置されています。後々、お堂の背後にも縁側を回し渡す予定のようです。続きます→。

  • 22Apr
    • 徳島県穴吹町 石庭のある本楽寺を歩く①の画像

      徳島県穴吹町 石庭のある本楽寺を歩く①

      (枯山水の石庭は吉野川が借景となってとても美しい)神宮寺の見学・参拝を終えた後、車に乗ると、お誘い頂きました住職が、「せっかくここまで来たし、ギロウさんが歓びそうなお寺が近くにあるから、連れて行ってあげよう」と言われました。私は内心、今日は予定以上にお寺ばかり見たからもうお腹いっぱいだなと思い、「もう夕方になってしまいましたし、帰るのが遅くなりますから、無理しなくていいですよ」と応えました。すると、「少々遅くなっても大丈夫やから、せっかく来たから一度は見ておいた方がが良いよ」と熱心に言われました。私も学生時代から数えると、京都や奈良の歴史ある大寺や神社などの寺社をかなりの数を巡ってきましたし、四国内も88ヶ所札所を始め幾度も周りました。そんなこの世界のセミプロ⁈とでも言うべき私が悦ぶようなお寺があるのか?ちょっと信じられなかったのですが……そこまで言われるなら行ってみようかと助手席に乗り込みました。吉野川沿いの192号線を東に向かって下っていくこと15分ほど。やがてそのお寺に到着しました。川沿いに走るJRの線路沿いの小高い山の上にあるお寺です。何やら岩肌が見えましたので、ちょっと変わった地形にあるお寺を見せたかったのか?と心の中で思いました。線路の上を横切る歩道橋を上がり門前に到着すると……「真言宗御室派 本楽寺」というお寺でした。「ここ拝観料かかるから、今回は僕が連れて来たからギロウさんの分も僕が入れとくから、まあ入ってみて!」言われました。「は!拝観料ですか⁈拝観料かかるんやったら無理に入らなくても良いですよ!」と私。拝観料300円を門前の賽銭箱に入れて入るようです。京都や奈良、鎌倉辺りのお寺でしたら拝観料は珍しくはないでしょうが……まさかこの徳島に、いや四国にそんなお寺があるとは!?もしかして、それを見せたかっただけなのか⁈という想いでしたが、「まあ、せっかくここまで来たんやからお参りしてみて!」という熱心な言葉に「じゃあ、せっかくなんで……」と甘えさせて頂きました。門から中を眺めると……お、割とこじんまりした感じやな。客殿が田舎のお寺らしくない(良い意味で)上品な造りです。これが普通の四国のお寺でしたら、少しでも立派に見てもらおうと、境内に筒いっぱいの大きな建物に、本瓦や鎧瓦・鬼瓦をたくさん積んで、その威容を醸し出す。その割に建具はアルミサッシだったり、縁側はガラス張りだったりする。(まあ、私の自坊もそうですが)そのようなところが、逆に田舎くささを感じさせたりするのですが……ここは唐破風の玄関、昔ながらの縁、そして屋根は銅板もしくは檜皮葺きか?戦後においてよく用いられる合板や既製品の建具、外材などの建材は一切使っていません。京都の禅寺か、門跡寺院の御所風のような建築。都の伝統にきちんと則った造りに(私には見える)なかなかやるな!との想いです。とにかく上品です。お寺で大切なのは建物の大きさや立派さではないんです。むしろ、色々なところで細部に滲み出る品格が感じられるか?が重要だと思います。建具をはずして、きちんと開けられた縁側から、その石庭を眺めると……なるほど。吉野川とその向かいの山々が見事に借景となっていました。向こうは崖ですが、わざと練塀を切って吹き抜けにしているところが憎いですね。この日は決して天気が良くなかったのですが、それでもしばらく静かに見てしまうものがありました。真言宗のお経の中に、「如実知自心」=「実の如く自心を知る」という言葉がありますが、正に、与えられたものに逆らわず、この地形を活かした庭と建物だと言えますね。とても感心しました。ふー。続きます→

  • 21Apr
    • 徳島県つるぎ町 準別格本山 神宮寺を歩く②の画像

      徳島県つるぎ町 準別格本山 神宮寺を歩く②

      檀家さん達が苦労して持ち寄ったご寄付により立派な多宝塔が建立されています。最終的にどのようなものが完成するのか?関係者は楽しみでしょうね。せっかくなので、お堂の方もお参りさせて頂きました。境内からは、現場がこのように見えます。ここは、本堂の横に客殿が併設されているという珍しい形態をとっています。これはこれで新しい感じがしました。また合理的で良いかもしれません。「準別格本山」の寺格です。立派ですね。本尊は、私の自坊と同じく「薬師如来」様です。扁額に、「医王善逝 十二上願 衆病悉除」とあります。「医王善逝」とは、薬師如来のことです。「十二上願」とは、「薬師瑠璃光如来本願功徳経」の中に説かれる成仏する前の、修行中の薬師如来が立てた十二の誓願のことです。「衆病悉除」とは、薬師如来を念じ礼拝する者に対して、民衆の心や身体の病をことごとく取り除くというおかげ・功徳を表したものです。今のように薬も病院も少ない時代、心や身体を健康に導いて下さるという素朴な願いが込められた仏様であるが故に、全国各地の多くの村々で祀られた薬師如来。飛鳥時代の奈良仏教でも、多くの寺で本尊に据えられるなど、日本に仏教が伝来してきた当初から祀られてきた最も古い仏様のひとつでもあります。お釈迦様が、医師のように人の心を導いたことにより「医王善逝」の別名で呼ばれることになりました。また、薬師如来は「東方瑠璃光浄土」の主催者であり、日本は極東にあることから天皇陛下と同一視され、祀られるようになりました。本堂前にて、いつものお勤めをして下山致しました。松山市の妻の建築設計事務所で、長い間務めてくれていたOさんが、近年になってつるぎ町の実家に帰り、無事男の子を出産されました。せっかく近くに来たので連絡致しましたところ、夕刻頃に赤ちゃんとお母さんを連れて、わざわざ会いに来てくれました。せっかくなので、抱っこさせて頂きましたところ、私の時にだけ大泣き。低い声の人の時にはよく泣くとのこと。どうやら、私の重低音の効いたvoiceに反応したようです(涙)それにしても、この軽くてふわふわした感触……懐かしいです。いつまでもこのままでいてくれたら可愛いのですが、それはそれで大変かも知れませんね。コロナ禍の中にも関わらず、すみません。わざわざ、ありがとうございました。ありがたいことです。

  • 20Apr
    • 徳島県つるぎ町 準別格本山 神宮寺を歩く①の画像

      徳島県つるぎ町 準別格本山 神宮寺を歩く①

      (現在、多宝塔を建設中の徳島県美馬郡つるぎ町にある神宮寺の作業現場にて)知り合いのお寺さんから、「松山市の社寺建築が、徳島県美馬郡つるぎ町のお寺の多宝塔を棟上げしているので、見に行かないか?」というお誘いを受けました。私もその日の予定が空いていたこともあり、同行させて頂くことにしました。これが本題で徳島県の美馬まで来たところ、前にご紹介しました寺町地区に出会した訳です。四国の場合、中核都市以外は人口流出がとても激しく過疎化が進んでいます。どこのお寺でも納骨堂などが必要になってきている状況です。が、それに合わせて多宝塔まで建てるとは……!徳島県は篤信な方が多いのですね。ある意味で、今の時代の地方においてお堂を建てるということに、ある種の凄さを感じます。崖を削り造っているコンクリートの建築物が永代供養の建物でしょうか?香川県の建築士さんが設計を担当しているとお聞きしました。その先には、同じくコンクリートで嵩上げした基礎の上に多宝塔が棟上げされていました。一体、どういう風に用いるのでしょうか?というか……ここまでして一体費用はいくらかかっているのだろうか?……。ふー。宮大工さん達が、コンコンと音を立てながら木材を組み合わせていました。職人さん達は、毎日マイクロバスで松山市から通っているそうです。斜面が崩れてる!?これからの大雨の時には注意が必要です。どうやら、コンクリートの建物の上は芝生が植えられるようです。このお寺は真言宗御室派の寺院です。寺伝は、「724年(神亀3年)に美馬町の中鳥に忌部神宮寺として創建された。その後、西地に移転し、1754年(宝暦4年)に火災の為に現在地に移された。」とあります。ここでも、また「忌部」の名が出ました。かなり山の上のお寺です。それ以上に、山々がこのお寺を周りを取り囲むようにして差し迫っています。そして、向かい合う山々のこんな所に!という所に民家があります。昔、中山間地域では山持ちさんはお金持ちでしたが、今は難しい時代が続いています。立派なお堂と建物がひしめき合うように建てられています。大師堂は江戸時代のものだそうですが、後の、本堂や客殿などはまだ新しいので、戦後以降に建てられたもののようです。多宝塔の下の基礎部分はかなりの高さですが、もしコンクリートが破損したり、ひび割れて強度が弱ってきた場合には上物はどうするのでしょうか?持ち上げて、降ろして、引っ張れるのか?同じくお寺を預かっている身としては、建物がどんなに立派なのか?よりも、先々、どのように維持していくのか?ということの方が気になります。これからの人口減少時代、特に地方においては人口流出がすでに始まっている中、境内がやたらと広く、建造物がたくさんあるお寺の地元に残っているお檀家さん達は、おそらく定期的に修繕や維持に追われ、さらに大変になるでしょう。今後、お寺というものを考えるならば、お檀家さんのご法事やご祈願など、亡くなられた方のご供養や人生の節目を拝む祈願に対して、大きくなくとも、きちんと用を足せる清潔なお堂が1つもしくは2つあることまた駐車場があることそして、就職や仕事などで遠方に出られた方が安心して遺族のお骨を任せられるしかも粗末ではなく、且つなるべく負担も少なくて済む埋葬施設が有れば充分です。悲しいことですが、もし少しでも長く続けていこうと思うならば、企業だけでなくお寺も合理性と効率化が求められているのは事実だと言えます。もはや職業病です……。続きます→。

  • 19Apr
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      コロナウィルス感染拡大への対応について

      (長閑な風景は今までのままであるが、目に見えない不安は誰しもに着実に忍び寄ってきている)現在ご承知の通り、愛媛県内では松山市を中心に、新居浜市などにおきまして、連日の感染者が確認されております。もちろん、今治市や宇和島市あたりでも少しずつ感染者が確認されるに至っています。感染経路の分からない市中感染が広がり、変容した新種のウィルスも増えています。3月以降の発生より、県内では増加傾向が続いており、今のところ収まる気配は有りません。そのような中ではありますが、本日もお寺でお檀家さんの追善供養をさせて頂きました。その時、来られたお檀家さんより、この地域での事象の報告を頂戴致しました。現在、お寺でご法事などをなされる方が増えていますので、これまで以上に対策を講じて行って参る所存です。不要のことはなるべく避けながらも、必要なことは確実に続けていけるように、対応をして参ります。まだしばらくは、このような状況が続いて参りますが、普段通りの生活が出来ますよう、あまり過敏になり過ぎないようしたいものです。当寺と致しましては、現在のところ異常などは全く有りませんので、これまで通りご安心頂き、いろいろご相談・ご依頼を頂きましたらと思います。ここに、関係者の皆様にご報告させて頂きます。ご協力の程、何卒宜しくお願い致します。拝