(鎌倉市大倉にひっそりと佇む源頼朝の供養塔)
鶴岡八幡宮を後にして、徒歩にて史跡巡りに向かいました。
初めの目的地は、この人無ければ鎌倉の発展もなかったであろう、源頼朝公のお墓参りです。
15分ほど歩いて到着しましたのは、閑静な住宅街の側の低山でした。
この辺りには、頼朝公のお墓だけでなく、鎌倉幕府の内政を担当し、毛利元就の祖先でもある大江弘元の墓や薩摩の島津家の祖となった島津忠久の墓もあるそうです。
毛利元就の祖先が、大江弘元の子孫で相模国の毛利荘の出なのは知ってましたが、この辺にお墓があるのは知りませんでした。
鎌倉に居を構えていた頼朝は、打倒平氏の旗を上げて、大倉山で挙兵しました。
伊予の河野通清・通信父子が、頼朝の求めに応じて、高輪山系にて旗上げしたのと似ています。
山に篭って抵抗するというのは、ゲリラ戦を意味します。
体制への挑戦者が兵を挙げるということは、少なからず寡兵をもって戦いに臨んでいるということでしょうか。
この辺りは法華堂の跡とされる一帯で、源頼朝の他、北条義時、大江広元など鎌倉幕府草創期の重臣たちの墓もあります。
法華堂とは、その幕府重臣たちの慰霊のために据えられた墳墓堂であり、慰霊碑でもあるのです。
ただし、頼朝亡き後に実質的な支配者となった二代執権・北条義時の墓をはじめ幕臣の墓は、この頼朝供養塔のある斜面の裏側の斜面に築かれていると言います。
お宮さんのように鳥居が建てられています。
供養塔に鳥居が建てられている様式は、高野山奥之院と同じですね。
上がりますと、このように仏式の供養塔が。
鎌倉幕府を立ち上げ、日本の有史上初めて武家による自立した政権を創始した人物のお墓としては少々小さく寂しい感じがしますね。
高野山奥之院にある江戸時代の大名家の供養塔の方がはるかに立派です。
江戸時代に薩摩の島津家が、復旧したそうです。
このように建物の基礎石のみが整地された空間に遺されておりました。
初老のボランティアガイドのおじさんが、親子の方々に説明しているのを、側で聴かせて頂きました。
鎌倉殿の13人の大河ドラマが数年前に放送されましたことはまだ記憶に新しいです。
頼朝と義時の墓がこの場所にあったのか……。
としみじみ眺めて、世の栄枯盛衰を改めて実感しました。
平氏を倒し、権力を手中におさめた後には、かつての仲間同士で権力闘争が始まった鎌倉幕府。
何事も極め過ぎるとあとは衰退が待っています。
極めすぎず、少し手前で控えている方が長い目で見ると良いかもしれません。
いずれにしろ、いずれは墓の下。
南無仏。
私は偉くならないで良かった……いや、偉くなれなくて良かった、と胸を撫で下ろした次第です。
ありがたいことです。