早くも1年前になりましたが、昨年の今頃に今治市にある吹上神社に行って参りました。



吹上神社は今治城内にあり、ここの神主さんは、なんと!お堀(お城)の中に住んでおられます。


ずいぶん昔には、人気テレビ番組であった「珍百景」でもそのことが放映されたそうです。


今治城が廃城となり、代わりに吹上神社が建てられた訳ですが、明治5年に光蔵寺が長らく別当寺であった朝倉上村水ノ上の氏神であった稲荷神社(現在の飯成神社)の神主を務めていた田窪家が、この吹上神社の社家として入りました。


その名残として、光蔵寺の裏山墓地に社家・田窪家の昔のお墓が建ち並んであります。


お父様の神主様がお元気な頃は、時折お墓参りに来られ、


「ここに車を停めさせて下さい」


と、いつもわざわざ丁寧に断りに来られておりました。


早く言えばその成り立ち=根っこを同じとし、水ノ上の地で共に歴史を歩んできた訳です。


桃山時代の1500年代の最後頃、現在の今治城を築城した藤堂高虎公の養子であった藤堂高吉公の代には、頓田川水系の源流域である朝倉郷水ノ上稲荷神社への崇敬が厚く、今治城内において正月に大麻箱を献ずる役を、三島大祝家の次に命ぜれたことにより、毎年元旦には田窪家が大麻箱を献ずることになったと、「飯成神社沿革誌」に伝えます。


おそらくはそのようなご縁により、明治5年に吹上神社の神職として移られたのでしょう。


しばらくは朝倉との兼務が続いておりましたが、しばらくして他の神職のお家へ代わりました。


昨年、「光蔵寺拾遺録」という本を檀家さんにお配りしましたが、この中に神仏混淆時代の記録として、「神社関連録」という章を設けました。


光蔵寺の朝倉上村における別当社は五社あったと記されていますが、上記の「飯成神社沿革誌」の内容を備忘録として載せていたところ、神主の田窪さんから直接連絡があり、


「一部お譲りいただけませんか?」


との問い合わせを大奥様から頂戴しました。


どうも、光蔵寺の檀家さんで越智さんという女性の方が、


「お宅のことがこれに詳しく載ってますよ」


と田窪さんに言われたそうです。


誰だろう?


いまだに分かりません。


光蔵寺の檀家の3分の1は越智さんですから。


小千益躬が氏寺として高蔵寺を創建し、その後に小千(越智)玉興や越智(河野)玉澄が居たというのも頷ける話です。


ちなみに田窪家も小千氏族の内の1家です。



本を編集する時に、若い方の神主さんに


「田窪家のことも載せてよろしいでしょうか?」


と、お尋ねした時に快諾して下さりましたこともあり、その御礼も兼ねて自らお届けに上がった次第です。


どのみちお届けするつもりではありましたが、今年に入ってから地鎮祭や出陣式などで若神主さんをよくお見かけするようになりました。


これも、やはり何かのご縁ですね。



本丸の横にあるのが、吹上神社の社殿です。


社殿の横には、稲荷明神社が境内末社として祀られていました。


ある意味で、田窪家所縁の神様と言えます。


水ノ上飯成神社は、


古来より宇迦之御魂神が祀られていた古社でした。


和銅5年8月24日(日時が私の誕生日と一緒!?)、伊予国司・河野散位・越智(小千)玉澄が、京都の伏見稲荷大社より稲荷明神を勧請したことにより稲荷神社と呼称を変えたとされる由緒があります。


「飯成神社沿革誌」には、中古より光蔵寺が別当であったが江戸時代後期頃に神主のみで社務が行われるようになった経緯が記されています。


やはり江戸時代の今治藩の「藩政録」には、1600年代の元禄3年、松山藩・蒲生家の統治時代に、朝倉郷代官であった梅本何某が、


「光蔵寺が朝倉中村の須賀神社別当、神主田窪家と棟札を整え、双方内証に相済み、そのことを三島大祝に申し聞かせた〜云々」


との顛末が記されています。


稲荷明神は光蔵寺の鎮守社でもあることから、私もお寺に遺されている神仏混淆時代の遺物であります、「稲荷明神図(荼吉尼天図)」とその本地仏とされる「如意輪観音像」を本尊薬師如来と共に毎日拝んでいます。


稲荷明神は秦氏の氏神で、宇賀神(白蛇神)や瀬織津姫や宇賀弁財天などとも同一視される神様です。


夕方に本をお届けに上がったのですが、この日は細石雲と夕日のコントラストが何とも美しかったです。



社務所を訪ねましたら、大奥様がお出迎え下さいました。


明治以降の資料はたくさんあるらしいのですが、それ以前のものは以外にも少ないそうで、喜んで下さいました。


ありがたいことです。