(主郭の背後にある土塁の先には二条の深い大堀切がある)
僅かながら石積みが残る土塁を突破すると、その先には「二条の深い大堀切跡」がありました。
堀切に降りて横から撮影すると、その深さがよく分かります。
さらに二条目の堀切にはこのような土橋がはっきりと遺されていました。
このように「一条の土橋」が堀切を横切っています。
二条目の堀切も、このような深さがあります。
真ん中に土橋があります。
この城には、他の城には無いような伝説が遺されています。
「剣山城、黒川美濃守通博三十八騎、当城代嫡子黒川左近守之。享禄年中黒川氏当城を築て、高峠を攻むるが故に、石川氏高尾に城を築き之を守る云々。天正年中落城。
鉢森(上市村にあり)、松尾(兼帯)、当城の初、田武瀬源太夫と云者居る。或時、狼、三尺ばかりの剣を食へ来り彼に与ふ。至って名剣也。深く蔵めて宝とす。則其を号けて剣が城と云へりと。」
狼が剣を加えて来たことにより、この名が付いたというのです。
何とも神秘的な神話です。
ゲームオブスローンズのスターク家のようですね(何のこっちゃ)。
この堀を渡りますと、再び平坦なところがありました。
どうやら、ここも郭跡と1つのようです。
木々が生い茂り、だいぶ荒れています。
3段の郭跡があり、その前後をそれぞれ二条の堀切で遮る構造になっています。
だいたいのところは、これで終わりなので、
ここもこれで下城の遺構は終わりかな?
と思いきや、
まだ有りました!
その先には再び「二条の堀切跡」です。
主郭の背後にある堀切を渡り、さらにもう一つ郭跡、そこの背後にはさらに二条目の堀切があるという入念さです。
下城だけでこの規模なので、黒川氏による城造りがいかに本格的なものであったかが、よく分かります。
正に、周敷郡を代表する山城です。
資料を見ると、黒川氏は交戦的な武家としての一面が垣間見えます。
周敷郡という立地を鑑みると、
東は宇摩・新居の二郡、北西に桑村・越智郡、南西には温泉郡、そして南には土佐国と、
それぞれの各勢力の境目として難しい立場に立たされていたと言えます。
そのことから、黒川氏の周辺では抗争が絶えませんでした。
その時々において河野家や長宗我部家などと縁戚を結びながら、或いはその両方との関係を保ったり、または変えたりしながら、新居郡の石川・金子氏や南西の戒能氏との戦いに明け暮れていたようです。
二条の堀切跡の先には尾根が続きます。
どうやら下城の縄張りはここまでのようです。
二条の堀切に土橋がかかり、3段の郭跡、土塁の背後には二条の大堀切、さらに郭跡が1段あってその背後に二条の堀切があるという縄張りになっていました。
この地点で220メートル弱くらいですので、約40〜50メートルほど標高を上がったところには、さらに剣山城・上城があります。
ここからは割と距離が離れていて、しばらく山登りを要します。
半分でこの規模ですので、剣山城全体ではこの辺りの平均的な城跡の約2倍以上の規模があることが分かりました。
ただ、シダが生い茂っているため道は険しいです。