愛媛県今治市朝倉に「法花寺(ほっけいじ)」と呼ばれる集落があります。
以前、西条市の福祉施設から電話があり、
「朝倉出身の身寄りのない方が亡くなられたのですが、朝倉の法花寺の連絡先がどこを探しても分からないので、教えてもらえませんか?」
という問い合わせがありました。
それもその筈、法花寺というお寺はすでに朝倉郷には無く、部落名だからです。
その旨をお伝えしたのですが、なかなかわかって貰えませんでした。
この法花寺部落に隣接するホノギ本郷地区の越智家には、昔から「本堂寺」または「本道寺」呼ばれるお寺の基礎石と伝わる礎石数基が伝わっており、その辺りの水田の土壌改良工事が行われた際に「本堂寺跡」と思われる寺院跡が出土し、白鳳時代の寺院の土瓦が発掘されました。
この礎石は、桜井地区の国分にある国分寺の七重の塔跡の礎石にそっくりです。
その他、法花寺部落の近辺にはホノギ尼ヶ井出と呼ばれる地区や樹ノ本古墳の上にはジョウロク寺の呼称と尼僧の墓(後世の物)があり、法花寺が尼寺であったことを連想させます。
そう考えると、
この法花寺とは国分尼寺の前身にあたるお寺ではないか?
と思えます。
法花寺部落から山に向かうと西蔵寺、高大寺という部落を抜け、京僧越しという山道を行くと、まさに光蔵寺(昔は高蔵寺)の裏山のほうからお寺へ、ドンピシャで辿り着きます。
この「京僧越し」と呼ばれる鄙びた山道は、今のような立派な道がない時代の昔からの古道の1つです。
法花寺を起点として、京僧越しで山を登って来る途中にある高大寺薬師堂・西蔵寺薬師堂、そして水ノ上・光蔵寺薬師の共通点としては、「川」が挙げられます。
高大寺川、西蔵寺川、そして水ノ上の光蔵寺前を流れる小寺川です。
どこも川にお寺の名前が付く点
その川の上流にお堂がある点
山道には京僧越しの名前が遺る点
に法花寺を起点とする各寺院と水源祭祀との関連があるように思います。
今治市桜井地区にある現在の法華寺は、
「江戸時代に入って以降に桜井郷引地山に再建されたもの」
であることが、今治藩の記録にもありますので、江戸時代以前の中世の頃には既に国分尼寺・法華寺の存在自体が途絶えてしまっていたことが分かります。
京都大学の教授で、建築史家としての権威でもあった福山敏雄先生は、
「奈良の国分尼寺には、その前身となる法花寺と呼ばれる寺院が存在し、そこには東大寺二月堂のような仏像ではなく、丈六の多宝塔が信仰の対象として祀られていた」
という旨の研究書を書かれておられます。
全国的には、全くの新寺建立として建てられた国分尼寺と前身になる既存の寺院を改修して国分尼寺としたものと、国分尼寺建立における大きく分けて2通りのパターンが存在していると言われています。
この伊予の国府があった越智郡ではどうだったのでしょうか?
想像は膨らみます。
昨年、この法花寺部落にあったと言われる
「中世の法華寺山城跡」
とその辺りから出土し、現在は博物館に所蔵されている
「奈良時代の僧侶の骨蔵器」
の埋蔵地だったところを探してウロウロしてみました。
資料は無いのですが、何かに「法華寺山城跡」と「奈良時代の僧侶の骨蔵器」の出土地が載っていたのを覚えています。
その資料を随分と探したものの、ついに見つけられなかったので、同じ高野山真言宗で結集寺院でもある法花寺部落の「正善寺」へ行って聴いてみることにしました。
正善寺さんは、元は朝倉にある笠松山の麓・野々瀬部落にあったと言われ、その当初は禅宗であったと伝えられているそうです。
江戸時代に入って朝倉郷は、大きく上下の2つだったものが、朝倉上村(江戸時代中頃に上ノ村が分村)と朝倉中村(南庄屋と北庄屋に分かれる)と朝倉下村に分けられました。
正善寺さんは、その朝倉中村南地区にあるお寺となります。
ピンポンを押すと、副住職さんが出て来られました。
「法華寺山と呼ばれるところを教えて欲しい」
との旨をお話しすると、
「住職だったら分かると思います。もうちょっとしたら帰って来ますよ」
と言われ、その間に少し案内してくれました。
「法隆山 正善寺」の山門
この山門や石塀に彫られた「九曜紋」がお寺の寺紋とのことです。
なぜ九曜紋なのか?
この時は分からなかったのですが、後で調べると思いがけないことが浮かんできました。
九曜紋は細川家の家紋でもあります。
笠松山は南北朝時代の古戦場跡です。
伊予の河野家と南朝方の大館氏明達が、北朝方の足利幕府執事で管領職、讃岐・阿波・土佐の守護職でもあった細川頼之の4万騎の軍勢を7千騎をもって道前平野と世田山・笠松山で迎え打ち、激戦の末に敗北し討死しました。
その後、伊予国府はしばらくの間、細川家の支配下にありました。
笠松山の頂上には正善寺さんが管理する観音堂があります。
正善寺さんのご本尊は地蔵菩薩。
調べたところ、京都に数件ある細川京兆家の菩提寺は禅宗で、ご本尊はほぼ地蔵菩薩でした。
もしかしたら、当初に禅宗であったというのは正しいかも知れません。
その場合には、南朝方の勢力が敗れた後に入って来た、
讃岐国守護職、元管領職、細川京兆家が建てたお寺
だということになります。
そうなれば、笠松山の麓にあったということも分かります。
戦場に散った戦没者の慰霊のために、新たな支配地に加わったこの伊予国府の地に菩提寺の1つを建てたということでしょう。
境内には、本郷地区の越智家から運ばれた本堂寺の礎石が3つ置かれています。
最近、新たに正善寺の前身としての本堂寺を説明する石碑が建てられていました。
国分寺の塔跡の礎石にそっくりです。
白鳳時代のものだと推測されています。
石塀にも九曜紋が彫り込まれています。
本堂前で簡単なお勤め。
その内に、住職さんが帰って来られました。
訳を説明すると、
「法華寺山も法華寺山城というのも聴いたことないな」
と首を傾げられました。
幾度となく遠慮したのですが……
「とりあえず、昔ミカン山だったところの中腹に古墳があるから連れてってやる!背後に乗れ!」
と言われるので、スク……二輪車の背後に乗せられて、舗装していない山道をゴリゴリ突っ走って行きました。
こんなところをニケツ!
なんという男気でしょう!
まさか、この歳になって70過ぎのご住職さんのお腹に手を回し、その背中に必死にしがみつくなどという経験をするとは!
でも死ぬかと思ったので、やはり途中から下ろしてもらい、自分で歩きました。
写真中央に見える山の麓に古墳があるとのこと。
残念ながら、まだ秋口で草がボーボーに生い茂っていたので登ることは出来ませんでした。
「昔はミカン山で上まで上がれたんやけどなぁ」
とご住職さんが仰られるその山は荒れ放題でしたが、そこから見える山の中腹に小さなむき出しの石室のような古墳があるとのこと。
もしかしたら、それが骨蔵器のあったところだろうか?
今回の元ミカン山の古墳があるところと導入路は、上の写真の赤線の部分です。
ただ、私が何かで見た資料には地図があり、山城も骨蔵器出土地も県道沿いの山の上でしたので、おそらくは別物だと思います。
続きます→