(光蔵寺の本堂前より仰ぎ見る大宇多山・おうだやま。その他、太田山や逢田山、大宇駄山などの漢字が当てられているものもある)

上朝倉の山城を巡ってきましたが、最近になって気が付いたことがあります。

それは、上朝倉に8〜9部落ありますが、その各部落に1つ、もしくは2つの城砦跡があるということです。

昔は部落がひとつの村という捉え方でしたので、各村ごとに今で言うところの自主防災組織と指定避難所を確保していたということになります。

その中で、江戸時代〜明治時代あたりに伊予の山城を調査・編纂した書物として主流の「伊予古城砦記」や「伊予温故録」には全く掲載されていないものがあることに気が付きました。

それは私が知るところ、2つあります。

1つは、重地呂山城(重城山)

もう1つは、今回ご紹介する「大宇多山城」です。

この大宇多山城は、中世の武将「河野源六通明」の城と言われています。

奈良県桜井市にも大和朝倉と呼ばれるところがあります。

この大和朝倉は大和川が山から谷間を沿って桜井市の盆地に流れ込む入り口辺りに位置しており、山に囲まれています。

逆に、大和朝倉から大和川を遡っていくと大和川の水源であり、その地方では多雨地帯で、やはり水源を祀る室生寺などの古刹がある大宇陀、現在の宇陀市へと辿り着きます。

伊予朝倉上村もまた古来より「朝倉の隠し雨」と呼ばれ、平野部や島嶼部で旱魃の時でも、朝倉上の中山間部では雨が降ることがあるように、現在でもこの辺りは今治市の中では多雨地帯であります。

この大宇多山を含め、龍門山・五葉ヶ森などから流れ出る小川は、共にこの今治地方を流れる大河川である頓田川惣社川の水源であります。

特に河野源六通明は、頓田川の源流の川・数本に井堰や水利標石を築くなど、源流の水利を支配することにより、この地域に影響力を及ぼし、その権力を築き上げていたことを感じさせます。

また大和朝倉や大宇陀に隣接する吉野町にも龍門岳と呼ばれる山があるなど、その地名に共通性が見出されるのは、古代の人的交流による影響とみられ、おそらく偶然ではないでしょう。


この大宇多山の麓には「河野」のホノギのある地区とやはり「河野」の屋号を持つ越智家、そしてその分家・数軒(共に光蔵寺の檀家)があります。

河野源六は、普段は山の上の詰め城ではなく光蔵寺のある水之上部落に屋敷を構えて住んでいたと言われており、その場所は昔は「源六屋敷」と呼ばれていました。

その跡地は現在、龍門保育園となっております。

お墓は、戦で亡くなった場所である今治市町谷の大師堂にあったのですが、戦後になってから町谷の歓喜寺に移設されています。

浅地部落、特に河野のホノギで呼ばれる大川(頓田川)の西側の地区から水之上を向くと常に光蔵寺が見える位置にあります。

おそらくは、この大宇多山城や龍門山城との関連性があり、引いては鈍川郷の鷹ヶ森城主・越智駿河守が滅ぶ時に光蔵寺(高蔵寺)に嫡子・門間太郎を隠れさせたと、河野家の家伝書に書いてあることもまた無関係ではないと思われます。

詳しくは置いておくことにして、光蔵寺がこの河野家、その祖先筋に当たる越智家と深い結びつきがあったことは、ほぼ間違いないでしょう。


この書物では、太田山または逢田山となっています。

地元の人に聴き取りをしたところによると「おうだ」という呼び名であることは間違いようです。

この上の2つの書物から解ることを要約しますと、

①おうだ山城跡には石垣が残っている。

②河野源六通明が居城していた。

③南北朝時代、正平18年に讃岐より来攻した細川頼之の大軍を世田山で迎え討ち敗北した河野通朝がこの大宇多山に逃れて草庵を結んだ。

④その草庵の跡として、上堂ヶ成(おそらくはナルの読み方)と下堂ヶ成と呼ばれる古跡がある。

⑤通朝の子孫の通明が、草庵のあった大宇多山を山城として利用した。

となります。

この大宇多山の場所を特定するのに苦労しました。

河野側の越智さん数人に聴き取り調査をしたところ大宇多山という名前ではすでに伝わっていなかったものの、地名として「おうだ」はあの辺りの谷間のことを指すということは越智家数名の方々に伝わっておりました。

教えて頂きました山道は行止まっていたことから、遠方からみて目星をつけた山頂を目指して、行き止まりの地点から、さらに山頂へ続く尾根へと這い上がることに成功しました。

それでは、実地調査をしてきましたのでご報告をさせて頂きます。

続く→。