何事も諸説あります。
ただ、それはその時々、それを書いた或いは書かせた人々の理由があって諸説が出来ています。
以前にも紹介した朝倉村の時代に発刊された「朝倉とその周辺の伝説と民謡」。
その中に、「南越山城」についてのお話が記載されています。
要約すると、
「白地城=南越山城には日浅阿波守通近がいた。
天正4年に農作物が重度の不作で、農民は年貢の減免を願い出たが聞き入れられなかった。仕方ないので何とか年貢を納めたが農民の間には餓死者が出た。年貢を納められない者は死罪となった。
一方隣の武田近江守の領地では、年貢を減免したので1人も餓死者が出なかった。
そこで白地や峠の農民は、女子供を武田近江守の領地へ流した上で鎌などの農具を武器に一揆を起こし、1577年3月7日早朝に南越山城へ押し寄せた。
不意を突かれた日浅阿波守は狼狽え支城の梅ヶ月城へと逃れたが、鉄砲や弓を得た農民達によって追い詰められ、梅ヶ月谷で自害し、その他の者は山伝にどこかへ落ち延びた。」
という感じです。
これは、おそらくは誰かが聴いた言い伝えを編集したものだと思いますが、読むと少し江戸時代が混じったような、所々、時代が違うエッセンスを感じます。
例えば、江戸時代以前、平安時代末期〜安土桃山時代までは戦乱が相次ぎ、安全保障は他者から保証されるものではなく、農民・武士の括りなく自衛手段として弓矢・槍や刀を所有していました。
特に鉄砲は大変高価なもので、この時期にはすでに日本にありましたが、このお城に鉄砲があって農民は鎌や熊手しか取り物がないというのは、身分制度のしっかりしていた江戸時代を連想させる発想です。
戦国時代に全国各地で起こった一向一揆においては武器はもちろんのこと、人によれば具足(鎧)まで着用しており農民は武装率はかなり高かったのが本当です。
さらにもう一つ、違和感があるのは武田近江守領では善政が敷かれたために餓死者は出ず、妻子をそちらに逃した上で〜、とあるところです。
江戸時代に山城跡と言われる場所を調べて回った人たちの資料を見る限り、江戸時代以前に本当に武田近江守領というのが本当あったのか?
定かではありませんが、あったとしてこの文章から見る限り、白地部落のすぐお隣の浅地部落や水之上部落の土地を指していると思われます。
妻子を逃す、と言ってもどちらも白地の集落から1キロメートルにも満たないところなので、元々200メートル〜500メートルほど先の家々で餓死者が出るほどの惨状に至っているのを、村内には沢山の親戚もあり助け合い精神の強い昔の村人たちが黙って見ていたとは思えません。
よって、これは江戸時代の浅地や水之上部落の地主が祖先を讃えるために唱えた話ではないか?という感じがします。
ここでその信憑性を問うつもりはありません。
ただ、一揆はあったのかも知れませんが、その他の細々としたところには作者の創作性を感じます。
続いて、大正2年に編纂された「上朝倉村郷土誌」にある「南越山城」の記述を見てみましょう。
上の写真の左端に「南越山城」の記述があります。
続きです。
要約するとこうです。
「日浅阿波守の居城にして下にユモジガダニと呼ばれるところがある。龍門山城落城があったと言われる頃にこの城もあった。
この城もまた敵に襲われ、城中の婦女はこの難を逃れようとしてこの谷に逃げ降りた。しかし、衣の裾がイバラの棘に絡まったりしている内に、追っ手に捕らわれこの谷にて無惨にも殺されてしまった。
それ以降、お盆の夜にはその亡霊が現れるので、今に至るまで万灯を灯して供養すると言う。
こうも言う。
鋳物師ヶ谷に阿弥陀寺(無量寺旧号)を建立する際にその調度品・仏具などを鋳物したところではないか?と。しかしながら、浅地の車無寺(元阿弥陀寺のあったと言われるところ)とは山を隔てて地理上には何ら関係ないように思われるが、これは一体どういう訳だろう……?」
と大正2年の折の編集者である小学校の教諭をされていた方が述べられております。
城に関する記述は前半部ですので、黒文字にしました。
この文脈から読む限りは、
龍門山城落城の折にこの城も攻められて悲劇があった
と読み取れる書き方になっていますが、いかがでしょうか?
敵は一揆勢の事だとも取れますが、
龍門山落城は小早川隆景に攻められたとなっているものは1585年8月、さらに基本の話が同じで攻め手が長曽我部元親となっているものは1582年となっています。
南越山城への一揆は、1577年3月7日と詳細に触れているのでどちらにせよ合致しません。
このことから検証しますと、
「龍門山落城の折に同じくこの城も敵に攻められた」
と書いていると受け取る方が自然だと言えます。
同じ話題に触れている訳ですが、大正2年に書かれたものと、昭和57年に書かれたものとで幾分差異があるのは何故でしょう?
上朝倉の歴史は一級資料が少ないために言い伝えやそれに基づくものがほとんどです。
よって、江戸時代という長い安定した時代に中間支配層により創作されたものが多数混ざり合い、相矛盾するものが乱立しているように感じます。
下朝倉の方にも笠松山を巡る歴史あたりに少し歴史の混雑具合が見えますが、その他はそんな感じもなく、非常にシンプルなものです。
この100年前の資料に書いてあることですら、現在に伝わっていないことがほとんどです。
まさに無人の野原のようなものです。
それを考えると、普通は地方の村の歴史や言い伝えというものはほとんどない(数少ない)ということが当たり前ですが、
上朝倉の歴史の一部には、やたら具体的に、そして事細かく伝わっていることが多く、その場合むしろ不自然さを感じさせます。
これは、以前にも掲載した江戸時代初期の松山藩時代から今治藩への引き継ぎ書(写し)です。
数少ない一級資料です。
これには1600年前後〜1640年くらいまでの上朝倉村に存在したものの地誌が記されています。
現在では潰れて無くなっているものもありますが、ほぼ現行通りだと言えます。
1700年代に朝倉上村は今治藩朝倉上村1300石と松山藩預かり地朝倉上ノ村300石に分村します。
要は上朝倉に2つの村が存在することになった訳です。
ひとつ言えるのは、1700年代中頃当時に、その分村した朝倉上ノ村300石の庄屋とそれに類する者たちを中心として、この上朝倉の地に何らかの運動が起こったということです。
そしてその後、
その運動を中心として年月をかけて創作が加えられ、無人の野原を行くが如く村内の世論が形成された結果、辻褄の合わないものが多数乱立したということが言えるだろう、
と思います。
大正2年当時、上朝倉村郷土誌を編纂された方が始めの序文で、
「現在伝わるものの保存を目的として、これは明らかに信憑性が疑われるものや創作の類と思われるものなども全て掲載した」
と書かれておられるように、
江戸時代に説かれた言い伝えや伝記資料には実地検証や村以外の資料など加味しながら実検すると、その中に多くの矛盾点を見出され、また当時の人間の思惑を多数孕んでいることに気が付きます。
混乱して何が本当の姿なのか?わからない
という前提のもとに、さらに客観性を持って今後も引き続き調べていきたいと思います。
続く(実地検証)→。