(これが石風呂の石窯だったところ。数年前までは有志の方々によって運営されていた。)


薄暗い尾根を切った道を通り、明るいところに出るとすぐのところにそれはあります。

左手の岩壁の上には小さなお堂とたくさんの寄付石が建てられております。


だいぶ傷んだ看板があります。

石風呂とは、

石窟の中に海藻や海水に浸した筵(むしろ)を敷き詰めてその上に横になり、竈においてシダを焚き詰めて窟内の温度を上げて全身の発汗を促す、現代で言うところの正に天然のサウナと言えます。



その側には再建された石碑も建てられていました。

同じことが彫られているようです。

江戸時代の天和元年(1681年)にこの地を訪れた禅僧・南明禅師がこの石風呂により病気が治り体調が回復したことに感激し、そこに祀られてあった医王善逝(薬師如来)の仏像に礼拝し、地元の人にその感謝の意を記した漢詩を遺したということが書かれてあります。

その漢詩がこちらです。

巌洞焼柴敷海藻
平治萬病一方浜
医王善逝如来徳
遊泳浴餘幾計人


巌窟の中に柴を焚き海藻を敷く

萬病を平癒し治すのは唯一無二の浜辺

これは医王善逝如来(薬師如来)のお徳

海には数え切れない程のたくさんの人(がその恩恵に浴している)

とでも訳しましょうか。


その下にはまた違う看板が落ちています。

「この石風呂は平安の昔、弘法大師が石窟を開いて里人の病気を治したのが始まりと言われ、近隣の人ばかりでなく、はるばる京から公家や高僧が業病・難病の治療に訪れたと言います。」

ここにある通り、わが祖師・弘法大師さまがお開きになったのだとすれば、平安時代初期にはすでにここに石風呂があったことになります。

今治市の教育委員会の職員さんが、市に保管されてある伊予国分寺の遺物を見ながら、奈良時代や平安時代頃には都からお公家さんが船で桜井や朝倉辺りにバカンスにやって来ていたんですよ、と言われていたのを思い出しました。

日本における石風呂の歴史は長く、その名は地名として全国の海岸近くの場所に名残りを留めています。

鹿児島県指宿市の砂風呂なども似たものだと言えます。

近いところでは、松山市の和気地区や新居浜市にも「石風呂」の地名が残っています。

ただ最近まで石風呂を実用していたのは大変珍しい事例だと言えます。

光蔵寺も、医王山の山号を持つように薬師如来を本尊としてお祀りしておりますが、門前の古寺川に「湯の口」と言うホノギが残っています。

温泉でも湧いていたのか?

と思っておりましたが、

川から水を汲み上げて、このような蒸し風呂を地域の人たちと共に布教事業の一環としていたのかもしれない

と想像を膨らませました。

京都にあった山科本願寺跡からは昨今、蓮如上人が好んで入っていた大風呂跡という蒸し風呂跡が発見されているように、お寺と風呂の関係は思った以上に長いものかもしれません。


岩場をくり抜き造られています。

海側の煙突が出たところがでしょう。

シダを焚いた時の煙があそこから上がっていたに違いありません。


この竈はまだ新しいです。

近年、復活させ運営していた方々が改修したのでしょう。

ただ、運営という点では難しかったと思われます。


今はこのように廃墟になってしまいました。


石風呂跡の眼前にはこのように浜辺が広がっています。


石風呂を出た人が、この舗装された階段を駆け下り海に飛び込んでその身体を冷やしていたところです。

人知れず全国のサ道を渡り歩いてきた私としては、この地元の元祖サ道を経験することなく終わってしまったことが誠に残念で、古の人々が飛び込んでいたであろう海をホゾを噛む想いで眺めました…。

続く→。