文台城跡を登った後、楠窪の砦を探して楠窪方面へ向かいました。
道路を上がっていくと、カーブしてすぐに志河川ダムがあります。
非常に綺麗な看板ですね。
ダムの下は公園になっていますし、堤防の上も行くことができます。
ダムを過ぎて10分から15分ほど走ると楠窪という集落に着きます。
ただ集落といっても、ほとんど家はありません。
通りのすぐ側に鳥居⛩があります。
「素鵞(そが)神社」です。
正直言って、この辺りに特徴的な建物はこの神社しかありません。
神社は志河川の向こう岸にあります。
このような橋がかかっています。
橋の上流。
そして下流側。
岩場に建物のピット跡のような穴🕳が複数あるように見えるのは私だけでしょうか?
橋を渡ると階段があります。
上がると再び鳥居⛩が。
帽子をとり一礼して入らせて頂きました。
そして礼拝の後、神前読経。
鎌倉幕府滅亡の折、執権北条家の縁者であった赤橋重時の従者・阿曽太郎が立て籠り、得能氏や大祝氏らと戦ったという「楠窪の砦」はどこにあるのか?
神社の背後もしくは左側にある山の尾根を登って行けばその頂上付近に何か遺構があるのでは?と思いましたが、いかんせん道はなく藪が生茂り、すでに2城を登ってきた身体には草木を切りながらあるかどうか?わからないところに向かい斜面を上がって行くだけの気力がなく、断念しました。
この楠窪の砦の位置に関して、情報が少なくわかりませんが、この神社の後方の山の尾根もしくは隣の山の尾根ではないか?と想像しています。
資料がないので、この辺りの民家を探して聴きとり調査を行いました。
橋を戻り対岸からあの辺ではないか?と山を見つめます。
あの辺か?
すると昔酒屋さんをしていたのでは?という造りのお家を尋ねると、ラッキーなことに男性の方が1人おられました。
「私は今治の方からきたもので山城跡を趣味で回っているのですが、楠窪の砦というのはどこでしょうか?」
と尋ねてみました。
男性は首を傾げながら、
「楠窪の砦というのは聞いたことないなぁ。文台城じゃないの?この辺りで城跡っていうと文台城やけどね。」
「文台城は先ほど上がってきました。そこのお宮さんのあたりかな?と思ってたのですが、手がかりが何もなかったので地元の人に聞いた方が早いかと思いピンポン押させて頂きました。」
「あ、そう。いやぁ、でも楠窪に砦があったというのは聞いたことないな。もしかしたら昔の人は知ってたかもしれないけど。あそこのお宮さんは親父の頃に戦後になって元宮と呼ばれる山の上から下ろしてきたそうだから、あそこじゃないんじゃないかな?」
「そうですか…。その元宮というところはどのあたりにありますか?また近々赤滝城と岩屋も登ってみようと思いますが、ご存知ですか?」
「元宮もどこやったかな?もう道があるかどうか?赤滝城はね、ここじゃなくて鞍瀬の方の大野神社⛩というところから上がっていくんやけどね…野地の岩屋も自分だけで行くのはなかなか難しいよ。鞍瀬の桜樹というところに丹原町の公民館の支所があるからね。そこに行って聞いてみて連れてってもらうように頼んでみたら?」
このようなことを教えもらい、お礼を述べて小さな集落を後にしました。
地元の人もわからないくらいなので、この日は楠窪の砦については諦めることにしました。
秋口以降の木の葉が落ちてから、何となくここではないか?と地図をみて思うところを探索するつもりです。
また、元宮と呼ばれるところに関してはこのような地元の史跡を載せてる地図を見つけました。
この楠窪地区にある「素喰神社跡」というのが、おそらく元宮と呼ばれるところでしょう。
砦跡にお社が建っていたことも考えられるので、併せて探索する予定です。
またご報告させて頂きます。