今回のワールド・ベースボール・クラシック(以下WBC)に思ったことを本日語らせて頂きたく思います。


日韓シリーズといっても過言ではないぐらい、隣国同士で争った結果になった今回のWBCが、最終的には日本の二連覇という結果で幕を閉じた事に、喜ばれた、というより、安堵された方は非常に多いと思います。


周知の通り、サッカーにおいては日本は後進国の歴史を持ちますが、こと野球においては韓国よりは一日の長を持っているといっても過言ではありません。


昨今韓国が日本野球に追いついたといっても、これまた言い過ぎではないでしょう。


それはさておき、僧侶としての観点からスポーツの祭典というべき大会等における表記について論じさせて頂きたく思います。


これは野球に限らず、以前の日韓共同開催のサッカー・ワールドカップの時にも思ったことなのですが、

大会およびその試合の呼称のことです。


以前から新聞やテレビのニュースがスポーツを取り上げるたびに「日韓戦」という見出しを挙げます。


国際的にそういった取り決めがあるのかどうかは分かりませんが、おそらく韓国では「韓日戦」といった名称で呼ばれているはずです。


確かに最近のスポーツの国際試合は国対国という構成をご多分に帯びていますし、何事においてもグローバリズム化において国際競争の激しい時代ですから、我が国を優先させたとしても何もおかしくはありません。


むしろ、現在の日本においては平和教育にかぶれ、愛国心の欠如を叫ばれ始めている時ですから、余計かもしれません。


しかしながら、私が理解する仏教の精神と厳密に照らし合わしますと、これは改めるべき事だと云うことができると思います。


何を改めるかと申しますと、仏教の「相互礼拝」という観点から言えば、日本は「日韓戦」を「韓日戦」と改めるのが妥当かと思いますし、相手国(ここでは韓国)は「日韓戦」と改めた方が、その精神に適うと云えましょう。


たしかにスポーツは競争の世界ですから、何よりも勝利が求められます。


それが拡大し国家間で我を優先させたとしてもおかしくはありませんし、ある意味では当然のことといえると思います。


しかし、今の日本ではスポーツは平和の祭典だというように、平和教育を標榜し、些細な事で政治家の言動を「タカ派」だと引っ張っているマスコミも、「自己優先表記」と国際協調を謳う「平和主義表記」の両方を唱える自己矛盾を抱えているように思うのです。


仏教の説くところである「両極を離れる」=「行き過ぎない」という点において、スポーツという競争主義社会においても最低限の礼節を以て相手を尊重するということは、それ以外の世界に対する影響も考えて非常に大切と云えるでしょう。


段々と現実主義になってきているように思う今の世界・日本です。


結果を出さなければ、勝たなければ意味がない。


しかし、スポーツは殺し合いではありません。


スポーツは国家の擬似戦の要素を孕んでいるからこそ、せめてマスコミ表記ぐらいは自国優先主義から他国尊重主義にかえてはどうでしょうか?


古いといわれるかもしれませんが、武道がとくところの精神を現代スポーツにもあてはめ実践していくところは、

武道にも多大な影響を与えた仏教精神にも当てはまると思います。


これからの国際協調は細部にわたるべきと私は思います。