各地を巡回してきた、あの破天荒な男の美術展が、いよいよ東京へ。
本当に、この巡回待ち、長かった…!
待ちに待っておりましたとも。
このビルの4階にあるのが、こちらの美術館。
今回は、パナソニック汐留ミュージアムで開催中の「ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち展」についてご紹介させてください…*
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「ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち展」
パナソニック汐留ミュージアム
2015.10.29(木)~12.20(日)
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言わずと知れた巨匠、ポール・ゴーギャン。
総合主義の実践や、ナビ派をはじめとする後進に与えた絶大な影響はもちろん「タヒチ」を描いた大作の数々で知られる。
展示タイトルにあるポン=タヴァン(タヴェン)は、仏北西部、ブルターニュ地域圏にあるコミューン(日本でいう市町村的なもの)。
かつてブルターニュ王国・公国として独自の歴史を歩んできたこともあり、田舎の自然はもとより独特な伝統文化が強く残ったこの地域には、19世紀から芸術家が集まり一種のコロニーを形成してきた。
そのうちのひとつが、ゴーギャンを中心としたポン=タヴァン派である。
…堅実タイプの画家好きの私にとって、ゴーギャンはその破天荒ぶりがなかなか理解しがたい人物。
才能や人を惹きつける魅力がありながら、なんかこう、色々もったいないというかなんというか…笑
本展は、そんな彼のポン=タヴァン滞在期の作品や、同派の作品にフォーカスするということで、ゴーギャンを知る上できっと勉強になるはず!と、巡回を楽しみにしていた。
※展示室内撮影禁止。今回掲載の写真は、特別に許可を頂き撮影したものです。
ゴーギャンは数回ポン=タヴァンに滞在しているが、まずはその1回目の頃の作品。
ポール・ゴーギャン「ポン=タヴァンの木陰の母と子」1886年、ポーラ美術館蔵
何も言われず目にしたら、一瞬ゴーギャンだとはわからなかったかもしれない。
(ちなみに今回の展示では、上図のようにゴーギャン作品の後ろにはパネルがつけられ、判別しやすいよう工夫されている)
その後パリに戻ったり、パナマ、マルティニック島滞在ののち、2度目のポン=タヴァン時代には、そのセンスの片鱗が見え始める。
右:ポール・ゴーギャン「2人のブルターニュ女性のいる風景」1888年、ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館蔵
穏やかな田舎の日常。
草の色味、その塗り分けのバランスや、人物や動物、家屋の形の捉え方…
インパクトはそこまで強くないけれど、輪郭をくっきり強めにとり、平坦に濃淡をつけず塗っていくクロワゾニスムが感じられ、女性のかぶっている頭巾がブルターニュ感を醸す。
(クロワゾニスムは、この2回目のポン=タヴァン滞在で仲の深まったエミール・ベルナールの試行をもとに形になっていった)
ゴーギャン×ポン=タヴァンという地域の掛け合わせが良い感じに表出した作品。
さらにこのあたりから、独自性が強まってくる。
左:ポール・ゴーギャン「2人の子供」1889年(?)、右:「玉ねぎと日本の版画のある静物」1889年、共にニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館蔵
ゴーギャン×ポン=タヴァンという地域の掛け合わせが良い感じに表出した作品。
さらにこのあたりから、独自性が強まってくる。
左:ポール・ゴーギャン「2人の子供」1889年(?)、右:「玉ねぎと日本の版画のある静物」1889年、共にニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館蔵
背景のビビッドな黄色がまず目をひく左の作品。
こうした色の捉え方、それを思うままにベタっとのせてしまう感じが、周囲にさぞインパクトを与えていたのだろうなと実感。(この作品の前年ではあるが、)ポール・セリュジエがその衝撃と学びをパリでナビ派という形で体現するに至ったのも頷ける。
(ナビ派は私のなかで「いまいち納得できない括り」だったのが、ゴーギャン作品を通してみればなんだかするっとわかる気がした。やはり大元を面倒くさがらずにしっかり辿って行くのは大事なのだと痛感)
また、ぎこちない手足の所作、芯の強そうな面構えの少女の顔は、タヒチの女性たちの姿を彷彿とさせる。
この作品の黄色い背景には右上のほうに花が散らされているが、この奥行きや濃淡を無視した描き方、右の作品の背景に描かれた版画など、日本の浮世絵からの影響が如実にわかるのも面白い。
「タヒチ」の作品ほどのインパクトや知名度にはかけるとしても、ゴーギャン史を知る上ではためになる作品たちだった。
ちなみに終盤には、タヒチで描かれたこちらの作品も。
ポール・ゴーギャン「タヒチの風景」1893年、ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館蔵
ポン=タヴァン派のシャルル・フィリジェ、さきほどから名前の出ているエミール・ベルナールや、ゴーギャンの影響を受けてパリでナビ派を形成したポール・セリュジエ、同派に属したモーリス・ドニ、ジョルジュ・ラコンブなどの作品が、かなりの輝きをはなっていた。
個人的なMVPは、ズバ抜けた存在感をはなっていたジョルジュ・ラコンブ。
中でも、あまりに心を持って行かれすぎて、絵の前で固まってしまった作品が下図。
ジョルジュ・ラコンブ「赤い土の森」1891年、カンペール美術館蔵
![{3CDCB169-CEC3-46E7-AE5F-1200B786687B:01}](https://stat.ameba.jp/user_images/20151106/08/girls-artrip/65/c6/j/o0480072213475820128.jpg?caw=800)
明確な色、線描、林立ぶり、静けさ。
今回の展示で少しはつかめるかなと思っていた、エミール・ベルナールやゴーギャンの創始した「総合主義」は、ここにきて彼がズバっと指し示してくれた気がする。
真っ赤な森。
きっと画家が感じたままに置いた色。
こんな色彩の中にありながら、なんだろう、この落ち着きと静謐さは。
色は濃く平坦で、ものの形は確実につかみきれるほどに明確で。
確かな木立が、目の前に広がる。
それだけ確実な現実世界を見つめながら、深層(あるいは表層?)にある精神世界がその周りを覆う。
そこはかとなく漂うその崇高な空気が、こちらを包もうとさえしてくる。
時を止めたようでいて、永遠性、永続性も感じさせる画面にさらなる衝撃を受ける。
「総合主義」を勉強しようとすると、画家の感覚、線描、色・形、現実世界と精神世界、そういったものを「総合」してひとつのカンバス上で表現するのだという、もうなんとも訳の分からない解説が出てきてしまうのだけれど、それらが全て取り込まれて成立するとこうなるのか、と、この作品を観てようやく合点がいった気がする。
そういった意味でも、この絵に会えただけで、ものすごい充足感に包まれた。
この神秘的な木立の画面、もしこれから訪れる方がいらっしゃったら必見です。
シャルル・フィリジェ「ル・プールデュの風景」1892年、カンペール美術館
![{F54334D1-9C0C-4B7C-84CE-BE3279E01363:01}](https://stat.ameba.jp/user_images/20151106/08/girls-artrip/a1/d0/j/o0480032013475820053.jpg?caw=800)
左から:ポール・セリュジエ「呪文或いは物語 聖なる森」1891年、「水瓶を持つ若いブルターニュの女性」共にカンペール美術館蔵
![{8A666FD1-89C7-45AA-B7B4-58E687B70403:01}](https://stat.ameba.jp/user_images/20151106/08/girls-artrip/80/a7/j/o0480032013475820080.jpg?caw=800)
左の作品の神秘的な儀式の様子と静けさ、緑・赤い木々のコントラストが印象的。
こちらも総合主義とは何かを勉強する上でとても参考になる、画家の内面、精神世界、そしてその外界たる現実が画面に共存した作品。
個人的には下図も好みだった。
ジャン=ベルトラン・ペゴ=トジエ「昼寝」1911~12年、カンペール美術館(ロリアン美術館寄託)
のんびりうたた寝、というよりは、最早爆睡。
まさに泥のように眠っている。
細く長い、ざわついた筆致が画面に風を生んで、視線は奥の黄色い背景へと流れていく。
こちらを向いている奥の女性は、鑑賞者を見つめているのか、それとも眠っている男性を見つめているのか。
後者だとしたらそこにも物語が生まれるようで楽しい。
そしてやはり終盤で大物感を漂わせたのはモーリス・ドニ。
左から:モーリス・ドニ「ル・フォゴエのパルドン祭」1930年、「小舟のブルターニュの女性」1891~92年、共にカンペール美術館蔵
まさに泥のように眠っている。
細く長い、ざわついた筆致が画面に風を生んで、視線は奥の黄色い背景へと流れていく。
こちらを向いている奥の女性は、鑑賞者を見つめているのか、それとも眠っている男性を見つめているのか。
後者だとしたらそこにも物語が生まれるようで楽しい。
そしてやはり終盤で大物感を漂わせたのはモーリス・ドニ。
左から:モーリス・ドニ「ル・フォゴエのパルドン祭」1930年、「小舟のブルターニュの女性」1891~92年、共にカンペール美術館蔵
左の作品の、日差しと煌めき世界のすごさたるや。
明るすぎる午後の陽射しの中で写真を撮ったら白とびするような、そんな感覚。
反射的に、眩しさに目を細めたくなるようなほどの画面。
午後の陽光のもと、くっきりと道に落ちる影。
個人的に、派や時代はまったく違えど、ピサロが好きなのも、岸田劉生の描く道にきゅんとするのも、この「土の道に濃く落ちる影」が好きだからだ。
このドニの影も、日向と日陰の体感温度の違いすら感じそうな描き分けが堪らない。
道の右手の紫陽花の描写もドニらしい。
明るすぎる午後の陽射しの中で写真を撮ったら白とびするような、そんな感覚。
反射的に、眩しさに目を細めたくなるようなほどの画面。
午後の陽光のもと、くっきりと道に落ちる影。
個人的に、派や時代はまったく違えど、ピサロが好きなのも、岸田劉生の描く道にきゅんとするのも、この「土の道に濃く落ちる影」が好きだからだ。
このドニの影も、日向と日陰の体感温度の違いすら感じそうな描き分けが堪らない。
道の右手の紫陽花の描写もドニらしい。
左:ポール・セリュジェ「尖頭アーチの風景」1921年、カンペール美術館蔵
右:マルグリット・セリュジェ「オーヌ川の風景」1942年、ブレスト美術館蔵
右:マルグリット・セリュジェ「オーヌ川の風景」1942年、ブレスト美術館蔵
左、ポール・セリュジエの静謐な画面に惹きこまれ、その厳かな空気に沈黙する。
尖頭アーチで景色が切り取られその崇高さを高めるが、俯瞰の構図は景色の雄大さを湛えて開放感に満ちている。
素朴な景色と画家の敬虔な信仰や思考が調和のとれた構図や形、落ち着いた色味と混じりあう。
とても良い作品に出会えたとしみじみ。
今回は、「タヒチ」や、いかにも!なゴーギャン作品を観るというよりは、クロワゾニスムや総合主義の発揚や発展、なによりポン=タヴァン派やナビ派などを形成した彼の周囲の画家たちの良作に出会える展示で、それぞれの作品に感激しつつ、美術史的な勉強にもなる展示だった。
また、作品に漂うブルターニュの伝統文化や景観、特にその宗教観や宗教行事の様子も、特異な神秘性、素朴な敬虔さをもって立ち現れるので、その点も興味深かった。
企画展のあとは、パナソニック汐留ミュージアムの誇るルオー・コレクションの並ぶ展示室を見て、美術館をあとに。
「ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち展」は来月20日まで。
まだまだ1か月以上ありますので、ぜひ足を運ばれてみてください^^*
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「ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち展」
パナソニック汐留ミュージアム
2015.10.29(木)~12.20(日)
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いつも、美術館めぐり―Artripをご覧頂き、有難うございます♪
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