今朝の記事↓のつづき。




それで、


体験した知
「わかる」を表現する 


という行為について。












かいつまんで言葉にしてしまえば
同じような内容を、




 

たくさんの人が
商品にしたり、作品にしたり
ツイートしたり、blogにしたり





あらゆる時代で
あらゆる場所で
あらゆる表現へと

結晶化してきて、





 
 

わたしのこの表現に
意味なんてあるのかな。



オリジナリティや
必要性なんてあるのかな。





と、空虚な気もちになることもある。



















けれど、   





誰もが
唯一無二の人生を生きるなかで





いったい
何番煎じかは分からないけど







あの時、あの場所で



呟いたあの言葉。


描きつけたあの油絵。








そんな表現が、
いま ここのわたしにフィットする。








どこかの歴史上の偉人が
発した言葉じゃなくて、


その表現こそが届く。










 




そういう瞬間が、
人生にはたくさんあるなあと思う。
 








どこかの偉人が
ポツリと呟いた言葉が 
そもそもの始まりだったかもしれないけれど








今のわたしに届くまで、

 



その時代に


その感性で


その人なりの表現をしてくれた人びとが 
存在したからこそ








だれかが
表現することをやめずに
つづけてきたからこそ、





届く瞬間があるのだと思う。











  



わたしのblogも
そうかもしれない。



 


 
この時↓も
そう思っていたけれど、


きょうのほうが、
もっとたしかに言葉にできたかな。  












ノートに向き合っていると、



考えるでもなく、
オートで(としか言いようがない) 



そんな、いろいろな想いが出てきます。
















意味なんてなくたっていいし、
分からなくたっていい。

 




わたしの肉体から出てくるもの、
わたしの精神から出てくるものを





ごまかさずに、
おそれずに。




表わしていこう。