あ(・▽・)け(・∇・)ま(・▽・)し(・ー・)て(・д・)  お(・O・)め(・∇・)で(・д・)と(・O・)う(・o・)  ご(・O・)ざ(・▽・)い(・ー・)ま(・▽・)す(・。・)ノ    
本年もどうぞよろしくお願いいたします

 


2020年あなたの運勢は...



Amebaおみくじを引く右矢印


運勢アップの本もチェック右矢印




年末年始の休みが終わった。私にとってこの休みは、
「快楽を求めて欲望の赴くままに過ごした日々」
であった。


ここで「快楽とは」「欲望とは」をカタると、この記事のテーマである哲学・思想の話になる。何やら難しい話が始まりそうだが、まずは画像を示そう(記事の最初の画像は、マイページのフォローフィードや画像つき記事に表示される「記事の顔」になるからね♪)。



「わっ、やっぱり下ネタじゃん! ヒくー!」
と怒り呆れそうになる女性読者のみなさん、この記事で下ネタを書こうとしているわけではないので、最後までおつきあい願いたい。




欲望(欲求)とは快楽を求めることであり、快楽とは心地よいことである。俗に言われるように(また読者諸氏が経験されているように)、人間の三大欲求とは「食欲」「性欲」「睡眠欲」という「生理的欲求」である(あくまでも一説であるが)。これらの「生理的欲求」をベースとしてその他のさまざまな欲求が存在する。下にこの概念図を示す。



この記事では「生理的欲求」以外の欲求をひとまとめにして、仮に、
人間欲(人間的な欲求、ヒト以上の人間らしさに基づく欲求)
と呼んでおく。もちろん、「安全欲求」はヒト以外の動物にも存在するし、「社会的欲求」を持つ動物もいるが、あくまでも「生理的欲求」と区別するためにそう呼ぶことにする。



「人間欲もんすたあ。」



私の冬休みが「欲望の日々」であったとは、自分にとって心地よくないことを誰かに強制されることなく、自分の「食欲」「性欲」「睡眠欲」「人間欲」を満たすべく過ごしたという意味である。

「人間欲」の中には知性を使って情報を入出力する欲求(広い意味での「知識欲」)が存在するが、その入力(インプット)のひとつが冒頭の画像である。これは「性欲そのもの」であるように思えるが、「性欲」をベースにした「人間欲」が求めた結果であることは、この記事を最後までお読み頂ければ理解してもらえると思う。

一方、「人間欲」のうち、出力(アウトプット)のひとつがブログ記事の執筆・公開であったと思う。そこには「創作欲」もあり、「笑いたいという欲求(遊戯欲求)」もある。もちろん、「承認欲求」もあり、多くの人が多忙な年末年始はアクセスが少なく、私の「承認欲求」は必ずしも十分満たされたとは言い難い。そういうことで、2019/12/27(金)~2020/1/4(土)の間にアップした記事をここで宣伝させて頂く。(これがこの記事で書きたかったことのひとつだったりするw)


1.12/27(金)「神は存在し、ヒトはやがて神になる
2.12/28(土)「M-1優勝者はミルクボーイ、って誰?
3.12/29(日)「週刊ポスト等年末年始特大号の見出し
4.12/30(月)「佐川急便・佐川女子は信用できるか?
5.12/31(火)「外付ポータブルHDDと内蔵HDD事情
6.01/01(水)「ぬす姫 愛の往復短歌(前編)
7.01/03(金)「ぬす姫 愛の往復短歌(後編)
8.01/04(土)「回転ずし魚屋路(ととやみち)




お気に入りのタイトルの記事があれば、リンク先に飛んでお読み頂きたい。




私の冬休みにおける「人間欲」としては、そのほか、「食欲」をベースとしているがただ生きるための食欲ではなく、「美味しいものを食べたい」という欲求があり、「魚屋路」に行ったことで十分な快楽(心地よさ)を得た。

一方、「生理的欲求そのもの」としては、休みの最終日になんだかんだで睡眠負債が溜まり、「睡眠欲」の命じるままに一日のほとんどを眠って過ごした。実際は、ハードディスクレコーダーに撮り溜めた正月番組をどんどん見ては消しを行なったが、番組途中で爆睡するという体たらくで、24時間のうち20時間ほどテレビを見ているんだか眠ってるんだか分からない1日を過ごした。おかげで「睡眠欲」は満たされ、翌日からの仕事に間に合った。

「人間欲」(ここでは「知識欲」)を満たすべくテレビ番組で得た入力の内容については、おいおいブログに書くことで出力して行きたい。たとえば、経済学のMMT(Modern Monetary Theory: 現代貨幣理論)とか。
「消費税って下げるべきものなんだ!」
「教育や研究にもっとお金を使うべきなんだ!」
という話である。




「食欲」「睡眠欲」では問題にならないことが、「性欲」では大問題になり得る(「性欲そのもの」でなく、それをベースにした「人間欲」でさえも非難の対象になり得る)。言うまでもなく、前者2つの欲求は行動がひとりに留まるのに対して、性欲には相手がある(ことが多い)からである。たとえ純粋で真摯な人間性を発現した場合であっても、セクハラ・パワハラになる可能性がある。このことに関して、忘年会帰りの理代子の弁を借りよう。

「詩織ぃ、ったく、池田、困るのよね。」
「理代子さん、どしたの?」
「理代子先輩、池田課長って生理的にダメなタイプですか?」
「春菜、あいつ、タメだから呼び捨てにするけどさぁ、私がお腹いっぱいだって言ってるのに、『これ食え、あれ食え』って、何考えてんだか。」
「池田課長、甲斐甲斐しく先輩に尽くしてるみたいに見えましたけど」
「理代子さんを奥さんにしたいんじゃないの?」
「やだ、結婚したらベルばらよw」
「名前が嫌いとか?」
「詩織先輩、どういう意味ですか?」
「春菜は分かんなくてもいいの、世代が違うんだから。」

「やっぱりあれってパワハラですか? 小学校の先生がやっちゃったイジメみたいな食ハラっていうんですか。」
「ていうか、セクハラかな?」
「うん、つきあいたい、結婚したいにせよ何にせよ、広い意味で『性欲』がベースになってるからね。」
「ハルナ、良く分かんないですぅ。」

「『交際・結婚、イコール、性』ではないけど、女性を求める気持ちや行動は『性欲』をベースにしてるでしょ。」
「純粋につきあいたいからって、こっちは嫌がってるのに無理強いはダメ。」
「それはそうですね。」
「で、理代子さん、忘年会内ストーカーされてんのw」
「『食え、食え』って、エサやりゃあ子供産んでくれるとでも思ってんのか。私は養豚場のメスブタじゃないっつーの!」
「はははw」
「陽菜、そこ笑うとこじゃないから。」
「詩織、春菜、とにかく、来年からは忘年会スルーだからねっ!」







ここで、
「池田課長の『性欲ベースの行動』はどうでもいいから、あなたが最初の画像をどうしたのかが聞きたいんですけど!」
と、まだ柳眉を逆立てている女性読者さんに答えなくてはならないだろう。私が記事冒頭の画像に目を留めたことが、広い意味で「性欲」に根差していることは否定しない。しかし、そこに美を見出したのも事実である。そこで、現代アートにのめり込んだ。私が気に入ったもの3点を示す。











なお、冒頭の2人の修道女がキスしている画像は、NHK BS1の番組、
「世界のドキュメンタリー ~プロパガンダ ウソを売る技術~」
で紹介されていたものである。よく理解せぬまま番組を消去したが、
「若い修道女が2人いたら、絶対にレズビアンだよな」
というウソ(偏見)に対するアンチテーゼではないかと思う。




さらに、私の美への欲求・希求は続き、近代西洋画、明治の浮世絵、インド・チベット美術、さらに古代の造形へと時代をさかのぼった。



















どれもこれも見事としか言いようがない。人間は古来よりずっと美の心地よさを欲し、それを実現してきたのである。思わず、
「人間万歳!」
と快哉を叫ばずにはいられなかった。