廊下から駐輪場まで走った。相川の赤いフレームの自転車はすぐに見つかった。ご丁寧に二つかけてあるワイヤーロックを鍵で外した。外したワイヤーはそこに放置した。後で謝ればいい。あたふたと跨がり、全力でペダルを回した。回しながら相川からのレクチャーを思い出した。軽いギヤで回転を上げる。高回転を維持して走っていると、メールの文が真由美の声になって頭を巡った。お母さん今行くよ。街中の自転車は圧倒的に速い。なにしろ信号待ちがない。たどりつき庭に自転車を置き、玄関のノブに手をかけた。鍵はかかっておらず、ドアを開けた。元気な声で、ただいまー。と叫んだ。お兄ちゃん、お帰り、と言って真由美が走ってきた。玄関に目をやると見慣れない黒い革靴がある。そうなの、新聞をとってくれって、何度も断っても聞いてくれないの。勝手に上がりこんだの。促されてキッチンに行くと中年の男が座っている。男の前には麦茶の入ったコップ。まったくお母さんってお人好しなんだから。心でなんのためらいもなく、お母さんと呼んでいた。男の目の前に立ち、母が言った通りですから。帰って下さい。と力強く言った。この時になって体中から汗が吹き出してきた。体幹を使って走る自転車の運動量はすざましい。吹き出した汗はシャツを濡らし上着も濡らした。体に服が張り付き、大胸筋、腹筋が浮き上がった。顔からの汗はテーブルにしたたった。そして気迫を込めて男を見た。何も言わずに立ち上がった男を玄関まで送った。玄関からでた男を見届け、鍵をかけた。お兄ちゃんありがとう、走り寄ってくる、汗だくでないなら、抱きついてきたかもしれない。驚いたわ。30分もしないでくるんだもの。それにその汗、どうしたの?自転車使ってきたんだ。自転車?そう、ただの自転車じゃないんだ、学校からここまで20分だった。とにかくシャワーにしてちょうだい。母の口調だ、シャワーから出ると、これ主人のだけど、と言って、服をひとそろい持ってきた。主人のだけど着てくれる?サイズはぴったりだった。さっぱりした私に向かって本当にありがとう。ご褒美あげる。と言って額にキスをしてくれた。唇を離す時には、可愛い音がした。
2ヶ月が経過したある日、訪れると、今日は、まひろ委員会で少し遅くなるんですって。ごめんなさいね。この頃まひろが言うのよ。学校の勉強でわからないことがないって。先生が教えてくれたことと同じこと学校でも教えてくれたって良く言うのよ。貴方受験だけでなく、学校の勉強についても指導してくれてるのね。本当に感謝してるわ。
一つわがまま言っていいかしら。わたしたち二人で暮らしていて、やっぱり不安なの。主人は海外赴任でまだ帰国できないって言うし。貴方に家庭来養子になって欲しいの。家庭教師であって家庭来養子。貴方が一緒と感じられるだけで心強いのよ。それはまひろも同じだと思う。ここに来たら貴方は私の息子だからお兄ちゃんって呼ばせてね。
依頼人の真由美を、お母さんと呼ぶのは何の抵抗もなかったし、これまでもまひろちゃんと呼んでいたので呼び方は家族同然である。先生がお兄ちゃんになり、くすぐったい感じだ。
ある日、午前中の講義中に着信があった。そっと携帯を見ると、お兄ちゃん、たすけて、真由美。メールだった。たすけてが変換されてない辺りに危機感を感じだ。どうする、飛び出して電車を使うと一時間近くかかる。タクシーはこの近辺では、すぐにはつかまらない。隣には、同じ学部の相川がいる。相川は自転車通学だ。自転車が好きでカーボンフレームのジャイアントに乗っている。軽量のロードスポーツだ。一度乗せてもらったことがある。よしこれだ。相川悪い自転車貸してくれ、礼はするから。突然の申し出にやや困惑したようだが、私の気迫に圧倒されたのか、ポケットから鍵を出して差し出した。悪いと言って受け取り、教室の扉まで歩き、教授の方を向いて目を合わせ深々と頭を下げ、扉を開けた。
そしてその日がやってきた。門から玄関に行き、ドアホンは押さず声を出して来たことを伝えた。ドアが開き、そこににっこり笑った真由美が立っていた。先生、いらっしゃい。お願いします。淡い色のワンピースにシンプルなエプロン。頭の中で、人妻と言う言葉を唱えるだけで、心拍数が上昇する。まひろがお待ちかねなの。貴方、まひろにどんな魔法を使ったの?あんまり打ち解ける子じゃないのに。あの子二三日前から真剣に勉強してたのよ。貴方の前でいいところ見せたいんですって。
お母さん、それは私も同じです。うかうかしてると、恥をかくのは、私です。私もしっかり準備してきました。お母さんに頼れる先生と思われたいんです。
この日は、十分時間をかけて準備しただけにあっという間に二時間が過ぎた。まひろは変わりなく優秀な教え子であった。