よしや身は越路の雪に埋むとも くる清水に名をやながさむ・・・「甲南高校」薩摩藩士『中原猶介』の碑 | 銀座由美ママの心意気

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働く女の心意気を、銀座という世界を通して、様々な観点から表現したくブログを始めました。 そんな銀座ママの日常です。どうかご笑覧下さいませ。



よしや身は越路の雪に埋むとも くる清水に名をやながさむ

―薩摩藩士「中原猶介」辞世の句



或る一日、由美ママは両親とともに鹿児島へと家族旅行に出かけましたが、この旅の目的は、2006年に創立百周年を迎えた鹿児島県立「甲南高校」への訪問が目的で、

その訳は、かつてこの「甲南高校」に、薩摩藩士『中原猶介』の邸(中原家の屋敷址は県に寄贈)があり、今は、鹿児島県立「甲南高校」へと変わり、邸の跡形も残されていませんが、『中原猶介(なおすけ)』とは、母方の祖先にあたり、西郷隆盛や大久保利通と同時代に生きた人物なのですが、雄図半ばで逝ったため、

“維新を見ずに散った志士たち”として紹介されてはいるものの、その名を知る人は少なく、今では、この校庭の南門に位置する「中原猶介翁宅址碑」の石碑と、「三方限出身名士顕 彰碑」になどに名が刻まれているだけの人物です・・・



銀座由美ママの心意気-鹿児島 中原猶介邸跡石碑 銀座由美ママの心意気-鹿児島 石碑と甲南高校校庭

「甲南高校」校庭の南門に位置する「中原猶介翁宅址碑」の石碑


この『中原猶介』の生前は、薩摩藩の集成館事業の中心に位置し、また江川坦庵塾の塾頭を務めるなど、優れた科学者(化学・蘭学・造船・電気・硝子など)・砲術家でもあったうえ、薩摩切子として知られる紅硝子などの発明にも大いに貢献しました。

もし、そのまま存命ならば、薩摩藩では西郷・大久保に次ぐ地位を占めたのは間違いないだろう・・・と惜しまれた人物だったようですから、『中原猶介』の直系の子孫は、今では母だけということもあり、この地を訪れることが長年の夢で、その夢を叶えることが何よりの親孝行でした。


銀座由美ママの心意気-鹿児島 中原猶介邸跡石碑2 銀座由美ママの心意気-鹿児島 石碑 母と
「中原猶介翁宅址碑」の石碑前 母と立つ由美ママ




『中原猶介』については、歴史作家の桐野作人氏が、南日本新聞の連載「さつま人国誌」にて、“知られざる逸材・中原猶介”として、2008年2月2日から三回に亘り書いて下さっていますが、

ここでは、その桐野氏のブログ「膏肓記」からの記事を少し紹介させていただきます。

http://373news.com/_bunka/jikokushi/43.php



―『贈正五位中原猶介事績稿』 最近、古書で入手したものである。著者は中原の子と孫である。
中原猶介といっても、知る人はほとんどいないかもしれない。幕末の薩摩藩士である。生没年1832-68。
西郷隆盛より五歳、大久保利通より二歳年下で、同時代の人物である。
中原は薩摩藩の集成館事業の中心に位置し、また江川坦庵塾の塾頭を務めるなど、優れた科学者(化学・蘭学・造船・電気・硝子など)であり、砲術家でもあった。
弱冠17歳にして、藩主斉興のお庭方として出仕し、斉彬時代には、反射炉建設、造船所建設、昇平丸建造などに才能を発揮している。また水雷・地雷の発明にも関わり、薩摩切子として知られる紅硝子などの発明にも中原の働きが大きいという。
さらに安政二年(1855)には、鹿児島城内の本丸休息所と二の丸花園までの、およそ500mの間に電線を架設して電信実験に成功している。情報の重要性を知り抜いていた島津斉彬は鹿児島と江戸藩邸の間に電線を敷設するための調査まで命じていたという逸話さえ残っている。
中原はまた優れた軍人でもあった。とくに砲術の専門家だった。
元治元年(1864)7月、禁門の変では、中原は軍賦役兼大砲隊長を拝命している。
このときの軍賦役はほかに西郷吉之助と伊地知正治だから、中原の地位の高さがうかがえる。
戦闘では、中立売門で攻勢をかける長州藩兵に対して、中原の砲隊が後方から葡萄弾(炸裂弾の一種か)を浴びせたため、猛将来島又兵衛が討死し長州勢は敗走のやむなきに至った。
戦後、中原は功績を称えられて、感状と陣羽織・佩刀を授与されている。戊辰戦争でも大いに活躍している。
鳥羽伏見の戦いでは、中原は薩州一番砲隊を率いて伏見口に陣した。麾下は四斤半施条砲三門である(配下の右半隊三門は鳥羽口に分派)。数は少ないが、高性能の大砲だった。
中原らは伏見奉行所の旧幕軍(会津藩、新選組など)とわずか100mくらいの距離でにらみ合う。戦端が開かれたのは一月三日夕刻だった。
その模様を、中原の「御届書」(省略)から見てみると、会津藩兵や新選組の接近戦を大小の銃砲火で撃退した様子がよくわかる。
その後、中原は海軍参謀、次いで参謀に任ぜられ、北陸征討軍に加わる。
北越の地では、長岡藩家老、河井継之助らと対峙した。
中原は軍議で、7月25日の進撃を表面上決定しておき、じつは24日夜半の奇襲攻撃をするよう提案したが認められず、25日未明の進撃に決した。
ところが、河井らが機先を制して、24日深夜に長岡城奪還の奇襲攻撃をかけてきた。
中原は砲隊を率いて奮戦したが、右膝頭に銃弾を受けてその場に倒れた。
のちに柏崎の野戦病院に収容されたが、戦友や医者たちの勧告にもかかわらず、一切の手当てを拒否して、
8月7日、長岡城再奪還の吉報を聞きながら他界したという。享年37歳。
中原がそのまま存命ならば、薩摩藩では西郷・大久保に次ぐ地位を占めたのは間違いないだろうと思われる。
惜しまれる早死だったゆえに、その名前や足跡が忘却されているのは残念である。
http://dangodazo.blog83.fc2.com/category5-2.html



このように桐野氏が、我が祖先・薩摩藩士『中原猶介』のことを書いて下さったうえ、

またこの度、“維新を見ずに散った志士”と題する『さつま人国誌』という著書で、゛知られざる逸材゛として、この連載を一冊に纏め、紹介して下さいましたので、ご覧いただけたらありがたく存じます。

http://minami-ru.net/373kc-book/373book/s-satumajinn.html
http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jinbutsu/nakaharayuusuke/nakaharayuusuke.htm
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-84.html

銀座由美ママの心意気-さつま人国誌・幕末・明治編 “維新を見ずに散った志士”と題する『さつま人国誌』by南日本新聞社


そのうえ、先日7月15日の「南日本新聞」に、「中原猶介の墓 残った・・・」との記事が載り、母が子孫として申し出たことから、鹿児島市の「郡元墓地」に在る『鐵心齋中原勇之墓』と刻まれた墓石が残されることになりました。http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=18109



銀座由美ママの心意気-南日本新聞記事

7月15日付けの「南日本新聞」記事「中原猶介の墓 残った・・・」


その他、京都五山の一つ名刹・臨済宗「東福寺」の塔頭『即宗院』境内に、この『中原猶介』の名が刻まれた石碑もありますから、(※通常は「即宗院」の一般公開はされておりません。)

チャンスがありましたら、境内の左奥に位置する『即宗院』の裏山の頂に建てられた「薩摩藩士東征戦亡の碑」もご覧下さい。


ちなみに、この『即宗院』とは、薩摩藩・東福寺城の守護大名であった六代目島津氏久(1328-1387)の菩提のため、南北朝元中4年(北朝嘉慶元年1387)、剛中玄柔和尚(東福寺第五十四世住持)を開基として創建された寺ですが、院号は氏久の法名「齢岳玄久即宗院」に由来し、

境内の東の奥には、西郷隆盛と清水寺成就院の僧月照などが、倒幕へ向け、密議を交わしたと伝えられる茶室「採薪亭」跡や、謡いで有名な自然居士の石塔があり、西郷はここに隠れ住み、様々な令を発して維新の大業をやり遂げたという謂れもあり、

西郷はこの間、鳥羽伏見の戦いや戊辰の戦いで倒れた薩摩藩士524柱(名)の事績を永く称えるため、当院に半年滞留し、斎戒沐浴して、自ら筆をとって銘文をつくり顕彰碑を建立したものが、

上記「薩摩藩士東征戦亡の碑」(明治2年)ですが、その後、月照と西郷は京を離れ西進、薩摩へ逃れましたが、月照は失意の中で錦江湾に身を投じ、一方、西郷は大島へ流されました。http://uenosaketen.cool.ne.jp/sokusyuuin.html


銀座由美ママの心意気-東福寺 即宗院 銀座由美ママの心意気-東福寺 塔頭 即宗院山門
“島津氏久の菩提寺”「東福寺」塔頭 臥雲山『即宗院』
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/sokuso-in.htm

銀座由美ママの心意気-島津藩士の顕彰碑いわれ 銀座由美ママの心意気-薩摩藩士東征戦亡之碑3


銀座由美ママの心意気-薩摩藩士東征戦亡之碑2

銀座由美ママの心意気-薩摩藩士 中原猶介他の碑 銀座由美ママの心意気-薩摩藩士 中原猶介の碑
『即宗院』鳥羽伏見の戦や戊辰で戦死した524名の薩摩藩士の氏名が刻まれた「薩摩藩士東征戦亡の碑」
我が祖先「教頭・中原猶介 尚勇」の名も・・・http://homepage2.nifty.com/airman/satsuma/toufuku00.html



銀座由美ママの心意気-鹿児島 中原猶介邸跡石碑3
「甲南高校」校庭の南門に位置する「中原猶介翁宅址碑」の石碑と由美ママ


この秋には、是非、母とともに再び維新の地・鹿児島に降り立ち、遥か祖先の碑に想いを馳せ、お参りに行きたく思っていますから、鹿児島にご縁がありましたら、“知られざる維新の志士”『中原猶介』をお見知りおき下さい・・・