319日め | おわかれの日々

おわかれの日々

長女の交通事故死、次女のホス狂、実母の認知症、主人の肺がん

記録として。

母は7時すぎに目覚めるまで、しっかり寝てくれていた。

 

2日ほど様子をみていて、そばに父や私がいてる分には落ち着いていること、

自宅に戻った方が母も見慣れた場所で落ち着くんじゃないか、と思うこと、

入院していないといけないような治療はしていないこと、

をいろいろ考えて自宅に連れ帰ることを考え始めた。

 

私も病院に付き添うより、実家の方が動きやすい。

 

9時過ぎになると、父もお昼ご飯を用意して一緒に付き添ってくれ、

自宅に連れ帰ることを相談した。

 

父も転院して、認知症が進んで帰ってこられる方が大変だと思っていること、

どちらかというと、父は母を安静にさせることができない看護師さんに不信感を抱いているようだった。

 

看護師さんに、退院を考えているから担当医と話しをさせてほしい、と

お願いをすると、

担当医は外来にでているので、すぐには話をできないので

少し待ってください、と言われた。

 

その間に、訪問看護師の友人に電話をし、友人所属の事業所を紹介してもらって、

いつでも退院できるように準備をし始めた。

 

本日退院ができなければ週明けになる。と、病院生活も長引きそうだな、と

頭のなかでシミュレーション。

 

ちょうど母がリハビリしているときに、

看護師さんが声をかけてくれ、私は外来に降りて担当医との時間を待った。

父には母と一緒に病室にいてもらうことにした。

 

 

外来で名前を呼ばれ、担当医を話しをするとかなり怒っていた。

あの母の状態で退院したいなんて、無理。

病院でも対応できないほどあばれているのに、家族で対応なんてありえない。

頭がおかしいんちゃうか!みたいなことも言われた気がするが、

腹が立ちながらも、冷静に、

私が24時間母をみます、通院も私が連れてきます、

どういう結果になろうが病院に責任は問いません。

私どもで責任はとるので退院させてください、とひたすら言い続けた。

 

父を連れてこなくてよかったと思った。

父ならけんかになっていた。まあ、私もけんかしたようなもんだが。

 

最終的に、担当医も自分とこで入院継続はさせる気はなかったから、

退院を許可してもらった。その代わり二度とこの病院には入院させない、

でも、通院はしてもいい、と言われた。

 

退院は午後からで、

整形外科と精神科への診療情報提供の書類をつくってもらうことになった。

 

その間に、ケアマネが一度実家の状態をみたい、というので、

父に帰ってもらってすぐに、退院の許可がでた。

 

再度父に病院に迎えにきてもらい、3人で実家に戻ってから、

ケアマネと会うことになった。

 

 

ケアマネは事情を察していて、家の状態をみて

介護ベッド、車椅子、お風呂椅子の手配をし、

30分ほどで運び込まれた。

 

朝からの電話で、すぐに介護用品を準備してくれていたようだった。

 

あまりのスムーズさにびっくりした。

 

車椅子にはなかなか慣れないようで、すぐに母は立ち上がってしまう。

自宅に帰ったからか、なおさら立ち上がってしまうので、

ちゃんと座って!と私が声を荒げると、

母は 私の好きにしてなにがわるい!と私につかみかかってきた。

 

母とは身長は変わらないが、体重は私のほうが重い。

それに私のほうが若いので母の腕力になら勝てる。

 

でも、私はケアマネさんに抑えられ、ケアマネさんが母を落ち着かせてくれた。

 

暴れた母をみて、父はびっくりして呆然としていた。

 

それでも、なんとか母は落ち着き、ケアマネさんも帰り、

晩ご飯も食べ、母は20時には寝始めた。

 

実家はLDKがつながっていて20畳あるので、

リビングになるところに介護ベッドを置き、

その横に上部が畳になっている収納ケースを組み替えて

(以前は掘りごたつの形にしていた)

布団を敷き、私はそこで寝ることになった。

 

父は自分の部屋で寝る、と2階にあがっていった。

 

私にはまだ寝るには早かったので、母の薬を整理した。

 

元々服薬していた血圧の薬が4種類。これは朝のみ。

 

新たに処方されている、ロキソニンと胃腸薬。

 

ほかに 出されている薬が3種類、これは精神安定剤だった。

 

かかとの治療としては痛み止めしかないんか、と

なんだかもやっとした。