飯場の子33話「お袋の病とカミさんとの出会い」
僕が水処理メーカーに出向しはじめた24歳の時に、今村家を揺るがす大きな出来事があった。
会社も着々と成長し、姉の由紀が甲斐組の経理を担当する事になった頃、お袋は甲斐組を退職する事になった。
3人の子ども達も、各々社会人にもなり早くも肩の荷も降りたところか、旅行好きなお袋は年に数回、国内や海外の旅を楽しんでいた。
そんな矢先にお袋は病に倒れたのだ。脳内出血であった。まだ57歳の若さである。
二日間、生死の間を彷徨ったが、手術を施し、なんとか一命はとりとめた。
しかし、高度の右半身麻痺と言葉を失ってしまったのだ。
お袋には迷惑かけてばかりの倅だった僕は一人涙し、その後悔の念に囚われた。
それから半年ほどリハビリ病院で入院し、退院後は自宅にもどり、昼は会社でリハビリをかねて片手ながら単純な事務作業を手伝うようにまでは回復した。
しかしながら、今村家はお袋の介護という壁と向き合うことになっていく。
現在は介護人口が増えた時代になり、いくつもの選択肢があるが、当時はまだ介護という分野は狭きものであり、お袋の介護には姉二人がかなりの労力を注いでいた。
そんな中でまだ24歳の若き頃の僕は介護なんて出来るはずもなく、たまにお袋の顔を見に実家に行く程度しか出来なかった。
この事には二人の姉がいた事を本当にありがたいと思う。
話は変わるが、中小建設業の解消されていない課題の一つに『女性と知り合う機会が極端に少ない。』という問題がある。
僕のそれも例外ではなく、19歳から数年間は異性との接点は非常に少なかった。
学生時代からの仲間が連れている彼女を見て、どれだけ羨ましかったか。
まさに建設あるあるの話しなのだ。
しかし現代はマッチングアプリなど当たり前の世の中になったので、我が社の若い社員にも出会いの機会は増えたと思うのがせめてもの救いである。
そのような当時、若き建設人の僕らは、夜の街に楽しみを求めて出かけるのは必然だった。
当時活動していた、なでしこ会の会合やイベントの打ち上げなどで先輩達にスナックなど夜のお店に連れて行かれるうちに、行きつけの場所が出来て行くのである。
平成初期の頃、まだまだ街中の盛り場には作業服を着た若者たちの姿も多かった。
時代は流れ、今はとんとその姿を見なくなったものだ。
僕の恋愛事情に戻る。
たしかに出会いが少ないがそれでも数名の異性とのお付き合いもあったのだった。ただ元来の我儘者で短気な性格が邪魔をして、そうそう長続きもできなかったのであった。
そんな27歳の僕に新たな出会いがあったのだ。
カミさんとの出会いだ。場所は行きつけのスナックである。
いつものごとく、ぶらっとお店に寄った僕は、ママさんから「新しく入ったコなのよ。」と一人の女性を紹介された。
その人は年上の女性だった、自分で言うのもなんだが「いい女」だったのである。人気もあり、客あしらいも上手なのであった。
聞いたところ昼は仕事をしており、夜はスナックでの掛け持ちのバイト、そんな彼女は世間をよく知っている人だった。
まあ、27歳の若造もその魅力に引き寄せられ、彼女目当てにお店に通うようになったのだ。
生意気な若造の僕になんの興味を抱いたのか、彼女との仲は徐々に近くなっていき、お付き合いする事になるのだ。
カミさんは6歳年上。
彼女には当時小学1年生と3年生の子どもがいることを知らされていた。
ある日、お店でなでしこ会の兄貴分であるヤマグチさんと飲んでいた時に、「よっちよぉ、お前みたいな我儘もんには、彼女くらいの器量がある女性じゃなきゃ無理だなぁ。お前には勿体ない人だよ。」と、肩をたたいてくれたのは嬉しかった。
こうして彼女と2年交際が続いた。
その間にも色々あったが、彼女も夜のお店もやめて昼職だけになっていた。
自宅に二人で泊っていたある日、夜中に目が覚めた僕はおぼろげに、でも明確に「ああ、この人と一緒になるんだろうな」と直感のようなものが頭をよぎった。
翌朝目が覚めた後でも同じ気持ちだったらその気持ちを告げようと心に決め、再度眠りについた。
当時、マンションからは綺麗に相模湾が見えていた。
朝、日の光を浴び、海を一望した自分の気持ちは、まったく変わっていなかった。
彼女がつくった朝メシを食べながら僕は彼女に「おれと一緒になってくれないか。」と告げた。
彼女は驚きと困惑にうつむきながら「こちらこそよろしくお願いします」と、小さいながらもしっかりとした言葉で僕の気持ちを受け取ってくれた。
僕は交際していた2年間、彼女の子どもたちと会うのをためらった。一緒になる覚悟もないのに、子どもに情が移ってしまうのを恐れたのだ。
男女の関係はこの先どうなるか分からない。もし別れてしまった時に、子どもたちに悲しい思いをさせたくなかったのだ。
プロポーズのすぐ後、学校では運動会があるとのことで、覚悟を決めて僕も参加。そこで5年生、3年生になった娘たちに初めて会った。
2人とも僕の存在は聞かされていたようで、娘達はなんとなく初めまして、という感じではなかった。
運動会のお昼ごはんは手作りのお弁当、挨拶もそこそこに、お弁当を美味しそうに食べながら、次女はたわいもなく会話をしてくれた。
しかし長女はもう5年生。物心がつく年だったためか、遠慮がちだったのを覚えている。
運動会が終わった後、「僕の家にいくか」となった。
マンションは10階。眺めがよかったみたいで「すごいすごい」といってて、ベッドもぴょんぴょん跳ねては喜んでいた。
ここに住みたいか?と聞いたら「住みたい」と即答。
その日から川の字で寝るようになり、彼女はすぐアパートを引き払い、共同生活が始まった。
結婚するとなった時、越えなければいけないのはやはり「親からの承諾」だ。
しかし、親父は生来の頑固者、僕たちの結婚には反対だった。
そんな反対にも僕達は折れず、父に認めてもらえるよう彼女は努力を惜しまなかった。
そうなのだ、彼女はお袋の介護も文句ひとつも言わずに姉達にまじりながら手伝ってくれた。
そんな日々が3年も過ぎ、とうとう父もその努力を認めてくれた。
出会いから5年、僕は32歳になっていた。
こうして平成15年5月31日、雨の日の土曜日に僕たちは入籍する。
市役所が土曜日でも婚姻届の受付を始めた頃であった。休館日の市役所は誰もいない、がらんどうの空間であった。
普段は騒めく、入り口のホールにポツンと置かれたちっちゃいテーブルが受付窓口だとのこと。
なかなかレアな経験だなと思いながら、案内されたテーブルの前に立つと、座っていた二人の係の人から「おお甲斐組さん、今日はどうしたの。」と声を掛けられる。
その係の人達は、市役所の入札契約係を引退した顔見知りの、元職員だったのだ。
「実は今日僕ね、婚姻届け出しに来たんですよ」
「本当ですか?そりゃ嬉しいな!おめでとう」と喜びをあらわにしてくれて、手が折れるのではと思うくらいの勢いで拍手。
僕も嬉しさが込み上げてきて、頭を下げて「ありがとうございます。」と笑顔で応えた。
「おめでとう」の声とその拍手が、誰もいないがらんどうの空間に反響した音を今でもよく覚えている。
飯場の子はいよいよ自分の家族を持ち、父親となった。
カミさんの名前は今村恵美、長女アヤカ、次女エリカの4人のスタートだった。
そして、その年の9月27日に末娘の日南(ヒナ)が誕生した。
家族は5人になり、自分の人生に新たなる一歩を踏み出したのである。












