明けて昨夜は
Facebookがつないでくれた
またすてきな再会があったよ。

(石原裕次郎の節回しで)
♪ FB~よ~ 今夜も~ ありが~と~~ … 。

30年以上ぶりのうれしい再会を果たせたのは
1981年に「キッスは目にして」の
ヒットを放ったザ・ヴィーナスの
ギタリストのJIMMYこと那須博君。





ザ・ヴィーナスは「キッスは目にして」で
いきなりシーンに登場したわけではなくて
そのヒットまでにちょいと苦節があった。

いわゆる彼らの十八番の
オールディーズ路線に
方向転換したのは1980年頃で、
その頃に僕は彼らの
シングル・レコードA・B面の
「涙のバースデイパーティー」と
「 ワン・ファイン・デイ」を
サウンド・プロデュースする機会を得て
メンバーになったばかりで初々しくさわやかな
そのときまだ10代だった
JIMMY君と出会ったのでした。

そう、オイラもその頃は
ほんとに駆け出しの
プロデューサーだった。

しゅごい、まさか30年以上ぶりに
こうやってまた会えるなんて!
ほんと、よくFacebookで声をかけてくれた。
そしてあたりまえだけど
すっかり大人になっていました。

話をすればするほど僕も忘れてたことが
どんどんよみがえってきて
おかげで昨夜は積もる話で
あっというまの3時間でした。

ただ昔話をするだけじゃなく
いまの、そしてこれからの
日本だけじゃなくて世界の
音楽シーンの話に花が咲いたのも
うれしかったね。

人の縁とはほんとに異なもの。
そのいろいろな話題の中に
JIMMY君がザ・ヴィーナスで活躍したあと
1984年に組んでいたSARAH(沙羅)という
エレポップ・ユニットの相棒が
中山純一君で、
なんと、僕が82年頃、プロデュースした
アリソン&フォニックのリーダーだった
ジミー中山君と同一人物だったのがわかったときは
驚いた。

中山君は70年代後半にロンドンにいて
「ラジオスターの悲劇」の入った
ザ・バグルスの1stアルバムの制作に
関わっていた唯一の日本人。
その後、アリソンという女性シンガーを
連れて日本へ帰国、「いけないルージュマジック」の
ヒットが出たばかりのロンドン・レコードから
アリソン&フォニックとして
「シンフォニック c/w Time For Action」という
シングルをリリースするとき、僕がプロデュースで
関わった異色のアーティストだったのです。



このアルバムに収められてる「Kid Dynamo」とは山上たつひこさんのマンガ
「ガキデカ」のことだと、中山君から当時聞きました。
彼がバグルスの2人に教えたらしい。


ザ・ヴィーナスのJIMMYと、
アリソン&フォニックのジミー、
共に僕がプロデュースした2人のジミーが
その後一緒にユニットを組んでいたなんて
この世はほんとにミステリアス。

JIMMY君
あれからも元気に活動していることがわかって
ほんとにうれしかったよ。
まだまだお互いに元気にやっていこうぜ。

お互いのこれからの活躍に
互いにエールを送りながら
またの再会を約束する
固い握手をして別れました。





今日のぱしゃりは
オイラの自撮りのツーショット。
ははは、相変わらず自撮りのときに
どこに目線をやっていいのか
わかんないぎんぎんでした。