打ち込みのドラムとベースをサウンドの柱だとすると、それに梁(はり)のようなグルーヴをつけて、タイトで小気味よいノリにしてくれているのが柴山さんのリズム・ギター。「GET HAPPY特攻Gチーム」の3人目はギタリスト、柴山好正(よしまさ)さんだ。
柴山さんがベーシックなリズムの枠をしっかり作ってくださったので、僕は安心してリードギターを弾かせてもらうことができた。まるでナイル・ロジャースのように切れのいい、ソウルフルなカッティングだった。



たまらんね。かっこよ過ぎる。ナイルのピックの刷毛さばきの小気味いいこと。こんな時間に踊ってしまうよ。


柴山さんは、すでに「PERSON TO PERSON」ツアーから、2代目ギタリストの平木登直(ひらきとなお)君に変って、銀次バンドの3代目のギタリストに着任してくれていた。
当時の僕の所属事務所アニマル・ハウスのスタッフが横須賀出身で、同じ横須賀出身の知り合いにいいギタリストがいるというレコメンドで出会うことが出来た。
僕よりもひとつ年上。一番新しいメンバーなのにいきなりバンドの重鎮に。キャリア、演奏内容、人格すべてがリーダーで頭(かしら)の資格あり。頼りになるメンバーの加入だった。

数々の他のアーティストのプロデュース作品でもプレイしてもらい、銀次バンドとしては「NATURE BOY」ツアーまで在籍していただいた。
ちなみに銀次バンドの歴代のギタリストは次のとおりである。

初代  : 岸卓巳
2代目 : 平木登直
3代目 : 柴山好正
4代目 : 沼田年則
5代目 : 中川進(元タックス・フリー)
6代目 : 古賀森男(フェビアン)

なんか、こうやって名前を見ていたら、無性に歴代のギタリストたちについて語りたくなってきたぞ。
話のムキがこうなってきたのもなにかの因縁。もうこんな機会もなかなかないだろうから、急遽ここから脱線。いきなりの「銀次バンド・歴代ギタリスト烈伝」が始まってしまうのである。

佐野元春の1stアルバム「BACK TO THE STREET」では、僕自身が「ナイト・スィンガー」や「ビートでジャンプ」、「Back To The Street」、「Please Don't Tell Me A Lie」でギターを弾いたが、2ndの「HEART BEAT」では、さらにプロデュースに専念できるように、ギタリストを入れることにした。

僕の代わりに「HEART BEAT」の「ガラスのジェネレーション」、「ナイトライフ」、「悲しきレイディオ」などでギターを弾いてくれたのが、岸卓巳(たくみ)君。
その後、僕がアルバム「BABY BLUE」をリリースして、新宿ルイードでレコ発のライヴを開くことになり、バックをザ・ハートランドのメンバーにお願いすることにしたときも、僕がヴォーカルに専念するために、岸君にサポート・ギタリストで参加してもらうことにした。


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1982年新宿ルイードの楽屋にて、銀次withザ・ハートランド。向かって一番右が岸君。


当時流行のラリー・カールトンやジェイ・グレイドン系の上手なギタリストだった。1983年7月まで僕のバンドでギターを弾いてくれた。

1981年、沢田研二さんのバンド、オールウェイズが解散、吉田建(B)、柴山和彦(GTR)、西平彰(Pf)の3人が残り、ギタリストとドラマーを探していた。プロデューサーの加瀬邦彦さんから誰か知っていたら紹介してくれないかと相談されてたので、ドラムでは上原ユカリ裕君と、ギターは岸君を推薦した。
オーディションの結果、ユカリはメンバーになったが、岸君は選ばれなかった。それがエキゾチックス。もし受かっていたら彼のミュージック・ライフはどんな風になっていたのだろう?

岸君も手伝ってくれた、新宿ルイードのレコ発ライヴはぼくにとっては、とても思い出深いものだ。
1977年以来の再デビュー・ライヴ。スタッフから何か特別な趣向をという声があったので、高校生の頃からずっと放送を聴いて影響を受けてきた、糸居五郎さんにゲストで来ていただいて、ライヴのオープニングに僕を紹介していただくというのはどうだろうとダメモトで提案してみた。

なんと糸居さんからOKが出た。快く引き受けてくださったうえに、おまけに、「Ginji Ito も Goro Itoi も頭文字は G. I. 。この二人のショーだから、「ダブル・G. I . ショー」というのはどう?」とごきげんなアイデアをいただいた。憧れの糸居さんから逆にそんな風に持ちかけられてそれはもう大感激であった。

さてライヴ当日、ルイードの客電が落ちると、いきなりこの曲が ... 。





銀次のライヴかと思っていたお客さん達にいきなりのオールナイトニッポンのテーマ曲。
そしてステージの右端に臨時に作られたDJブースになんと糸居五郎さんが ... 。
テーマにのせていつものあの軽やかな糸居さんの名調子が ...。

「夜更けの音楽ファンこんばんは。夜明けの音楽ファンご機嫌いかがですか。糸居五郎です。
今日はGinji ItoとGoro Itoi のダブル・G.I. ショー。ゴー・ゴーゴー&ゴーズ・オン !!」


いまだに続くオールナイト・ニッポン。僕にとっては糸居五郎さんのオールナイトニッポンこそがど真ん中のオールナイト・ニッポンだった。
最初はとまどっていたお客さんだが、そうとわかると受けた受けた。糸居さんはいつもの流麗なおしゃべりでチャック・ベリーをジーン・ヴィンセントをエディ・コクランをバディー・ホリ-を紹介してくださり、すっかりムード盛り上がったところで、いよいよ僕の呼びこみ。
糸居さんの「Ginji Ito!」のコールの刹那、古田シータカたかしの叩く「Just A Little Love」のドンドコドンドコドンドコドンドコというドラムでコンサートの本編が始まったのであった。

糸居さんのおかげでとても雰囲気のいいライヴに。糸居さんの紹介でライヴを始めることのできたアーティストなんてそうはいまい。終了後糸居さんともお話できて、僕にとっては再デビューと糸居さんが重なったという、ダブル・感激ライヴ、いやいやトリプルあるいはフォース・感激ライヴになったのである。

その約2年後、1984年12月28日に糸居さんはなくなられた。それはあまりにもショックな出来事だった。
もしあのときダメモトで共演を申し出てなければ、憧れの糸居さんとは一度も共演は適わなかったのだ。
いま振り返っても夢のような、一生忘れることができないダブル・G. I. ショーだった。
僕の心の中にはまだ糸居さんの番組から教わったものが生きています。ありがとうございました。

おっと、ギタリスト烈伝だったね。思わず脱線、スマンの涙である。

2代目の平木登直(ひらきとなお)君は岸君とは180度まったくスタイルを異にする、クラッシュのミック・ジョーンズみたいな、パンク・スピリットに溢れたギタリストだった。
普段の生活態度もいかにもロックなヤツだった。僕に負けず劣らぬ大酒飲みで、僕とのちがいは飲むときいつも何も食べないこと。それは体によくないぞといつも彼に説教していたものだった。
心やさしいギタリストで、メンバーみんなの人気者。とにかく性格はいいが、なぜか体は固かった。

リハ終わりのどこかの会場の楽屋だったと思う。僕が前屈をしていたら、登直が「銀次さん、やわらかいですねー。」という。そんなに飛び抜けて柔らかいわけではないが、なんとか指先ぐらいは床につく。
「オレぜんぜんダメなんですよね。」 と、前屈をはじめたらしいのだが、とても前屈にみえないのである。ただ頭を軽く前に下げておじぎをしているとしか思えない。どちらかというと会釈である。

「登直、冗談だろ?」というと、「マジです。これでも真剣に曲げてます。」
いままでにあんなに体の固いオトコには会ったことはなかったが、あの体の固さから、あの鋼のようなパンキッシュ・ギターが生まれてきたのではといまになって合点がいっている。
元気にしているだろうか? 彼も彼の肝臓も。



2分04秒あたりから登直のギター・ソロ。がんばってるのでしっかり見てやってください。


登直の在籍は、「WINTER WONDER LAND」ツアーから「BEAT CITY」ツアーあたりまで。
僕の曲はコードがややこしいので彼のようなタイプのギタリストには大変だったんじゃないか。
でも一度も音を上げず、がんばって2代目ギタリストを努めてくれた。ありがとうね。

そして3代目が柴山さん。柴山さんについては次回詳しく語ろう。
「PERSON TO PERSON」ツアーから「NATURE BOY」ツアーまで在籍してくださった。

そして4代目は、1989年当時のドラムの熊ちゃんこと熊倉隆君とベースのコイさんこと小島昭浩君の推薦で加入してくれた沼田年則君。
パッと見、西武ライオンズ時代の清原選手。短髪でラクビー選手のような立派なガタイでどうみてもギタリストには見えないが、弾き出すとあっと驚く和製ヴァン・ヘイレンだった。

熊ちゃんとコイさんは、当時銀次バンドと杉本彩さんのバックバンドを掛け持ちしていて、沼田君はそのバンドのギタリストだったのだ。

つづく