アルバム「GET HAPPY」のことを書くつもりが、70年代と80年代のシーンを激しく行き来する、まるで「スター・ウォーズ」や「デューン砂の惑星」のような壮大な展開になってきた。書いている僕も先が読めない。
いまは次から次へと堰をきったように溢れ出てくるいくつものエピソード達に待ったをかけながら、心おちつけて、まずは人を語ることで音楽を伝えていこうと思う。

「GET HAPPY」のエレクトロ・リズム隊は、僕が提示したパターンやフレーズを元に、すべてのドラムスやパーカッションをシンペイ君が、すべての曲のシンセ・ベースといくつかのキーボードを国吉良一さんが中心になって打ち込んでくださったもの。
この3人がかりで作ったリズムの骨組みに、柴山好正さんのリズム・ギターと西本明君のピアノ、そして僕のギター・ソロがのっかって、必要最小限の「GET HAPPY」バンドが形成されている。
それまでの僕のアルバムに比べると、圧倒的にミュージシャンの数が少ない。

かってシンペイ君と僕がシュガー・ベイブという絆で結ばれていたのと同じように、あるいは、さらに濃密な不思議な縁でつながっていたのが音楽プロデューサー、キーボード奏者の国吉良一さんだった。
僕の音楽の熱心なファンのかたなら、僕のアルバムのクレジットで何度もその名を目になさっていたことだろう。「GET HAPPY」の特攻Gチーム、二人目の国吉良一さんを紹介しよう。

国吉さんが初めて僕のセッションに登場されたのは、1983年のアルバム「SUGAR BOY BLUES」の「ちがうんだよ」だから、「GET HAPPY」の時点では僕のレコーディングでの中心的存在だった。
アルバム「STARDUST SYMPHONY」、「WINTER WONDER LAND」を経て、「NATURE BOY」まで、ずっと僕のアルバムのメイン・キーボード奏者であり、音楽的よきアドヴァイザーを努めてくださった。

国吉さんは、ぼくより2つ年上、沢田研二さんや大瀧詠一さんと同い年である。
僕にとっては音楽の先生のような存在で、お願いすればどんなジャンルのフレーズでも出してくれる音楽四次元ポケットでもあった。
僕がいろんなジャンルにまたがったポップスを実現する事ができたのは国吉さんの存在が大きい。片方でジャズやブルースやロックンロールに造詣が深いと思えば、片方では、早くからシーケンサーによる打ち込みをマスターしておられた。古きよきものを熟知されていながら、いつも新しい風向きを見つめておられた。





一番印象に残っているのは、「WINTER WONDER LAND」の「パリッシュブルーの朝に」。
あのシンセ音源を使ったネオ・ボサノヴァのフィーリングは国吉さんなしではありえなかった。間奏にハービー・マンみたいなフルート・ソロをお願いしたら、みごとにそのフィーリングを再現してくださった。





さらに1984年のロスアンゼルス・レコーディングでは、国吉さんに危機一髪を救われたことがあった。

初の完全海外レコーディング。基本のリズム隊は、カルロス・ヴェガ(Drs)、ボブ・グローブ(B)、マーク・ゴールデンバーグ(GTR)と国吉さん(Key)。国吉さん以外は全員ロスのミュージシャン。

国吉さんにただひとり日本人メンバーとしての同行をお願いすることになったのは、もちろんキーボードへの絶大なる信頼もあったが、マイアミ大学音楽科を卒業しておられ英語がペラペラ、外人ばかりのバンドをまとめていただく役割、そして最も重要な特命、「Summer In The City」など打込みと生の演奏をミックスさせた録音で、国吉さんにシーケンサーを使ったマニピュレーターも兼務していただくたためだった。

当時はテープとシーケンサーを同期させるために、テープに信号を録音しておいた。
その信号をたよりにシークエンサーが走った。

ロスについた初日、バート・バカラックとコンビを組んでいたハル・デヴィッドのご子息が経営していた、ONE ON ONEというスタジオを下見に出かけ、あらかじめ信号を録音してあったテープをスタジオに預け、翌日から始まるリズム録音に備えた。

レコーディング初日、同期しているかどうかチェックしてみるとなんとシーケンサーが走らない。
何があったのか?なんとそのスタジオのアシスタント・エンジニアが気を利かせて、僕たちが帰った後テープをチェックして、ノイズが入っているからと、すべての曲の信号をご丁寧に消し去ってしまっていたのだった。
なんてことをしてくれたんだ ... 。一同唖然。。もはや前途真っ暗になったそのとき、明るい声で国吉さんが「いやいや、銀次、大丈夫、大丈夫。僕が手弾きで弾くから... 。」

信じられないかも知れないが、「Summer In The City」などの打ち込み風に聞こえるシンセ・パーカッションやシンセ・ベースは、すべて国吉さんの手弾きによるものなのである。






1984年のロスはまだ生楽器を録音することが多く、こういったテープ・シンクによる録音がほとんど行われ得ていなかったらしい。まだまだテクノ後進都市だったということなのである。クラフトワークのように、普段からデジタルなノリを追求されていた国吉さんがいなかったら、いったい「BEAT CITY」はどうなっていたのか?それを思うといまさらながらに寒気がしてくる。



ときとして突飛で奇抜な僕のアイデアに、音楽的な裏付けのある、確かな肉付けをしてくださった国吉さん。アイデアが浮かぶと、せっかちですぐにトリッキーな方向をめざしてしまう僕とは正反対の、一歩ずつ確実に歩みを進めていく、牡牛座らしいどっしりとした音楽家だった。まるで日本のヴァンゲリスのような、大陸的で宇宙的な音楽観を持っておられた。





はじめて国吉さんと出会ったのは1975年、僕がシュガーベイブを止めた後、りりィさんのバイバイ・セッション・バンド(以降バイバイと略す。)の2代目のギタリストになったときだった。

ちなみにバイバイの初代ギタリストは、なんと、後に一風堂を率いる土屋昌巳君。
ちょうど僕がシュガー・ベイブを辞めた頃、土屋君が大橋純子さん&美乃家セントラル・ステイションの結成に参加するためにバイバイを脱退することになり、代わりのギタリストを探していた。

りりィさんは1974年に「私は泣いています」という大ヒットが出していたので、ライヴ会場はどこでも県民会館クラス。しかも日本全国ほぼすべての都道府県をまわる大ツアーが組まれていた。
僕にとって、それまで体験したことのない、はじめてのビッグネームのバックバンドの仕事。僕に勤まるだろうかと迷ったが、新しい世界に意を決して踏み出すつもりで加入を決めた。

福生で大瀧さんから学んだものも多かったが、バイバイではライヴ・パフォーマンスの何たるかを身をもって知ることができた。僕にとっては道場のような、そして何人ものすばらしいミュージシャンがそこから巣立っていったことでもわかるように、まるで学校のようなバンドだった。

国吉さんとお会いしたのはそのツアーでのことだった。
土屋君と共にバイバイの第1期のメンバーだった国吉さんは、僕がメンバーになった頃はソロ・シンガーとして独立され、りりィ&ザ・バイバイ・セッション・バンドとのパッケージのツアーに同行されることが多かった。





この曲が始まると、いつも僕はそっと楽屋から舞台の袖にやってきて、グランド・ピアノに座って歌う国吉さんの背中を見ながらずっと聞いていた。僕たちバイバイはバンドだったが、国吉さんはピアノの弾き語りでツアーを回られていた。何度かその伸びのある歌声を聴くうちに、この曲がとて心地よくて、いつか大好きな曲になっていた。

そのときは、まさか僕自身が後年ソロ・アルバムを発表し、国吉さんにキーボードで参加していただけることになるなんて、思いもしなかったことはいうまでもない。

とかくティン・パン・アレイなどに比べると当時話題になる事は少なかったが、りりィ&バイバイ・セッション・バンドには、国吉さんや土屋君以外にもすごいメンツが在籍したのである。

ドラムスでは西哲也(ファニーカンパニー)、平野肇(ダディ・オー)、上原‘ユカリ’裕。ベースでは吉田建(エキゾチックス)、田中章弘(ハックル・バック)。パーカッションでは斎藤ノブ(パラシュート)。キーボードでは茂木由多加(四人囃子)そして坂本龍一などすばらしいミュージシャンたちを輩出している。
70年代を代表する無冠のロック・バンド、バイバイセッションバンドのメンバーだったことをいまでも僕は誇りに思っている。

このままで話が終わると、ただ1回だけ変化してキャッチャーのミットに収まるただのカーブみたいなエピソード。時代は80年代に入って、なんとそこにナイアガラがからんできて、国吉さんと僕の不思議な縁が、あたかも魔球のような変化を見せて、ストライク・ゾーンぎりぎりに決まった。

ちょうど佐野君の「Heart Beat」のレコーディングの前後だったと思う。
大瀧さんにほんとにひさびさに電話を入れて、いま佐野元春というアーティストをやってますと、近況報告をした。
なんと、知ってるよというお返事。いまでも謎なのだが、その頃から大瀧さんは僕たちが何をしていてもどんな細かいことでもすべてお見通しだったのである。
しばし歓談後、いま六ソでレコーディングやってるから見においでよとのやさしいお言葉。わかりました、じゃあ佐野君も誘ってみますと約束して電話を切った。

六ソとは、今はもうなくなってしまった六本木ソニー・スタジオの略称。信濃町にあるソニー・スタジオは同様に、しなソと呼んだものだった。そのしなソも今はもうない。

佐野君の「BACK TO THE STREET」や「HEART BEAT」も六ソで録音した。スタジオの中の壁にかけられていた大きなジグソー・パズルが印象的だった。佐野君が叫んだ消火栓は六ソにあったものだ。

誘われるままに気軽な気持ちで出かけた六ソで、佐野君も僕も衝撃的な光景と対面することになった。
なんとピアノが2人、アコギが4人というように、通常のリズム隊のレコーディングではみたことのない人数。しかも何度か同じことをダビングするという、スペクターゆずりのナイアガラ・ウォール・サウンドの録音現場を初めて目の当たりにすることができたのだ。そのときの曲は忘れもしない「さらばシベリア鉄道」。
それまでのリズム・トラックでは想像できなかったレコーディング・スタイルと、スピーカーから聞こえてくる想像を絶したサウンドに、佐野君も僕も声を失ってしまった。
僕にはさらにもうひとつの驚きが。なんとピアノを弾いている二人のうちのお一人はなんと国吉さんだったのだ。

まさかこの場面で国吉さんとお会いできるとは ... 。ナイアガラとバイバイがここで交差したのだ。まさに縁は異なもの。
さらにその後も、国吉さんは「ナイアガラ・トライアングル vol.2」にも参加、そして1981年12月3日に行われた渋谷公会堂での伝説のヘッドフォンコンサートでも、難波弘之君とのダブル・キーボードで参加され、国吉さんのバッキングで、僕はダディ柴田さんとともに佐野元春の「サムデイ」を演奏することになった。

この驚くような再会に、国吉さんと何か音楽をやりなさいという神の啓示みたいなものを感じた。
ただならぬ縁を感じて、僕のアルバム「SUGAR BOY BLUES」の「ちがうんだよ」でのプレイをお願いすることにしたのだ。

いま振り返ると、国吉さんが一番長く僕のレコーディングでキーボードを弾いてくださったことになる。
それはとりもなおさず、僕の国吉さんへの信頼感のあらわれだと思う。
それゆえ、僕が他のアーティストに提供した楽曲を編曲していただくことも多かった。
なかでもハイファイセットのアルバム「SWEET LOCOMOTION」の「ロージー・ホワイト」のアレンジは、リキが入っていて、僕のお気に入りである。





きっと知らずのうちにみなさんも、国吉さんのキーボードを耳にされていたにちがいない。
日本のポップス・シーンの屋台骨を支え、たとえシーンの表に出ることは少なくても、その地道で確実な音楽活動が評価され、国吉さんは2000年に映画「鉄道員(ぽっぽや)」、2002年に映画「ホタル」の音楽を担当され、二度にわたって日本アカデミー賞・優秀音楽賞を受賞されている。
この国吉さんの栄誉はまるで我がことのようにうれしい出来事であった。



北海道のフォト紀行のBGMに、国吉さんが作・編曲された「鉄道員(ぽっぽや)」の序章の音楽が使われていました。


最後にもうひとつ。
あの日の六ソからの帰り道、佐野君はとても言葉少なだった。何か消化しきれないものをゆっくりと咀嚼しようとしているような様子だった。大瀧さんのレコーディングが佐野君にあたえた衝撃は想像をはるかに超えたものだったようだ。そのときの体験が大きなヒントとなり、まさか「サムデイ」に結実するとは思わなかった。

「サムデイ」は、アルバム「Heart Beat」のレコーディング当初から彼の頭の中に浮かんでいた曲だったが、ついにそのアルバムの録音中には姿を現すことはなかった。
すべてのリスナーに「いつかきっと」という気持ちを想起させるだけの、パワーとロマンを包含するサウンドが見つからず、彼の中で堂々巡りをしていたにちがいない。
それが、あの日、六ソでナイアガラ・ウォール・サウンドに出会ったことが引き金となって、
トンネルの向こうに明かりが見えてきたかように、完成へと導かれたのだと思う。

つづく