大先輩、柳ジョージさんが逝った。あまりのショッキングな出来事で声もでなかった。
惜しい。あまりにも早過ぎる。あの乾いた歌と艶のあるギターはもう聞けない。


僕が柳ジョージさんの歌を初めて聞いたのは、彼のソロ・デビューのはるか以前。1969年3月にリリースされた「ブルースの新星/パワー・ハウス登場」というアルバムでだった。


パワー・ハウス登場 [12 inch Analog]/パワー・ハウス

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左から陳信輝(GTR)、柳ジョージ(B)、野木信一(DRS)、竹村英司(Vo) のパワー・ハウス。


「Hoochie Coochie Man」や「Good Morning School Girl」など、当時の日本のバンドの中では初めてといっていい本格的なブルース・ロックのパワーハウスに、18歳だった僕はしびれにしびれた。
それははっぴいえんどとはまたちがった意味での、日本のロックのパイオニアのひとつだった。

リード・ヴォーカルは竹村英司さん。その泥臭い唱法がやたらカッコよかったが、クリームでおなじみだった「Spoonful」1曲だけが、なぜかヴォーカルがちがっていて、そのヴォーカリストもまた日本人離れしていてその1曲に釘付けになった。カリカリに乾いてファンキー、しかもハスキーなそのヴォーカル。クレジットを見てみると、ベーシストが歌っているんだとわかった。パワーハウスのジャック・ブルース、そのベーシストが柳ジョージさんであった。


パワーハウスは、まだアマチュアだった僕の憧れのブルース・ロック・バンドだった。
当時僕は「ブルース・ウォール」というアマチュアのブルース・バンドを組んでいて、へたくそだったけど、ピーター・グリーンのフリートウッド・マックやジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ、ヤードバーズなんかの曲を演っていた。

uncle-jamの「Heroes」で僕がプレイしているブルース・ハープは、この頃、僕がまだ17~18歳だったときのブルースへのアプローチの名残りである。当時僕が得意とした曲は、ジョン・メイオールの「Another Man Done Gone」だった。



ハープといっても「竪琴」のことではありません。ハーモニカのことです。


ただ当時まだ大阪では、ホーナーのブルース・ハープは売ってなくて、国産のフォーク・ハーモニカでは、いくらがんばってもチープな音しかしなくて、メイオールとはほど遠かった。

そんな僕らがめちゃくちゃ憧れていたのが、横浜のゴールデンカップスやパワーハウスだった。

憧れが嵩じて、僕らのバンドのドラマーが横浜にパワーハウスを見に行くことになった。たぶん横浜のレッドシューズでの演奏だったと彼から聞いた記憶がある。
ライヴ終了後、興奮した彼はパワーハウスのメンバーに話しかけたらしい。そのときウチのギターでヴォーカル(僕のことだ)が、ブルース・ハープを吹いてて、ホーナーのハーモニカがほしいけど大阪には売っていないと嘆いていると彼がパワーハウスの人たちに話したら、なんとホーナーのハープを売っているお店を教えてくださったそうだ。

帰ってきた彼が僕に手渡してくれたホーナーのブルース・ハープは、なんともいえない、今までに体験したことのない香ばしい響きがした。今でもあのときの唇に感じたしびれるような心地よい振動は忘れられない。まだ若かった僕には、このブルースハープは憧れのパワーハウスからのプレゼント以外の何ものでもなかったのだ。

時は瞬くまに経ち、1977年僕は初のソロ・アルバム「DEADLY DRIVE」をワーナーからリリースした。そのときのディレクターだった知久さんが独立してフリーウェイという事務所をつくったとき、僕にもウチへ来ないかと声をかけてくださった。
誘われるままに入ったら、なんとその事務所に、あの憧れの柳ジョージさんがいらっしゃった。

まじビビッたけれど、とても気さくでやさしい人で、僕のことを「銀次さん」などと呼んでくださったのにはすっかり恐縮してしまった。ホーナーのブルース・ハープのことを話すととても喜んでくださったものだった。

またたくまに「Weeping In The Rain」などのヒットが出て、スターになっていったにも関わらず、気取らない下町感覚はずっと変らない人だった。

プロレスが大好きで、事務所で会うとよく観戦に誘われたものだった。誘われるたびに「でもプロレスってあらかじめ筋書きが決まっていたりするんではないですか?」といぶかると、「銀次さん、リングサイドで、汗やらが飛んで来て、目の前にレスラーが吹っ飛んでくるのを見たらそんな気持ちどっか行っちゃいますよ。」と子供のように熱く夢中で語られていたのを昨日のことのように思い出す。僕もプロレスは嫌いじゃなかったから、やっぱりあのとき、いっしょに観戦に行っておけばよかったといまさらながらに後悔している。

レイニーウッドのピアニスト上綱克彦さんとは2008年の「I Stand Alone 2008」の広島で共演することができたが、柳ジョージさんとは結局いっしょに演奏する機会がなかった。
でももしそんな機会があっても、僕はきっと昔の憧れが抜けなくて、借りてきた猫のようになっちゃったにちがいない。パワーハウスの「Spoonful」はそれほど僕にとって衝撃的だったのだ。





その頃、事務所のみんなは彼のことを「ジョーちゃん」と親しみをこめて呼んでいたものだった。
ジョーちゃん、「Spoonful」とホーナーのブルース・ハープをありがとうございました。
ゆっくり休んでください。さびしいけれど冥福を祈ります。