9日と同じく10日にもそれぞれのソロー・コーナーが。持ち歌からそれぞれ3曲ずつ披露した。
10日に僕が歌ったのは次の3曲だ。

08) 七月のオーロラ ( 銀次曲 from GET HAPPY)
09) そして誰のせいでもない ( 銀次曲 from BABY BLUE)
10) ティナ ( 銀次曲 from GET HAPPY)

秋も秋、そのど真ん中の10月だというのに、ソロ・コーナーの1曲目に「七月のオーロラ」をいきなりもってきたのは奇抜にみえて、実は僕なりに思い入れのある選曲だった。3曲目の「ティナ」とセットなのだといえば、感のいい熱心な当時からの銀次ファンならピンとこられるのではないかと思う。

「七月のオーロラ」は、東芝EMI移籍後の記念すべき初のシングルのA面。そして「ティナ」はそのカップリング・ナンバーだったのである。1986年7月23日発売の移籍第1弾アルバム「GET HAPPY」からの同日のシングルカット。決して大ヒットにはならなっかったけれど、僕にはとても思い出深い2曲。リマスター再発を4日後に控えていたので、5タイトルの約60曲を代表するつもりで選んだ。


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さらにテカって見えるのは、もともとそういうデザインのジャケなのでご容赦ください。


「ティナ」は2009年の弾き語りツアーでもときどき歌うことがあったが、「七月のオーロラ」はあまり歌うこともなくずっと寝かせたままだった。
そのあいだにいつのまにか僕の体内で、そのメロディが醸成していたのだろうか。
ひさびさに歌ってみると無意識のうちに、「Can you feel me」のフレーズを、裏声まじりでフェイクしていた。うん、この歌いかたはなかなかいい。なぜオリジナル・レコーディングのときに浮かばなかったのだろうと、無茶なことを思いながら歌った。
柳川英巳君が書いてくれた 「カーラジオから夏が逃げても」 という詞がいつもキュンとくる。
柳川君は沢田研二さんの「おまえにチェックイン」の詞を書いたことでもおなじみだ。そのあたりについては「GET HAPPY」秘話でくわしくふれるつもりでいる。

そしてなぜか2曲目に、東芝EMIイヤーズの作品ではない「そして誰のせいでもない」を選んだのにも理由があった。
この日うれしいことに、佐野元春がuncle-jamのライヴを見にきてくれることになったからだ。

いままでの4回の風知空知ライヴがあるたび、佐野君を招待しようかどうしようかずっと迷ってきた。
まだまだ発展途上だった僕と黒沢君のユニットを見てもらうタイミングを計っていたのと同時に、風知空知は演奏者、お店のスタッフ、お客さん、そして招待客のみなさんが垣根のない空間に同居することになるので、彼を招待してお店に混乱があってはとちょっと心配だったこともある。

9月30日に音楽仲間や業界のかたたちに招待のメールを送っていたとき、ちょうど1年が経過して節目になる第5回の風知空知ライヴを佐野君にも見てもらいたくなってきた。
僕が黒沢君といっしょにどんな音楽を演っているのか見てほしくなった。
彼が興味を持ってくれるのであれば、対処はそのときに考えればいい。とりあえずダメモトで佐野君に招待のメールを出してみた。

なかばあきらめかけていたライヴの前日の10月8日に、「10日に是非行きたい。」と彼からうれしい返事が送られてきた。
あまりにうれしくて、大切な時間を割いて見にきてくれる彼の気持ちにどうやって答えようかと思案をめぐらせていたら、あることを思いついた。

1982年、アルバム「BABY BLUE」がリリースされたとき、僕はまだ佐野元春 with ザ・ハートランドのメンバーだった。1977年の「DEADLY DRIVE」以来になるソロ・アルバム「BABY BLUE」の制作が決まったとき、自分のことのように喜んでくれた佐野君。そして新たな僕の旅立ちの門出を祝うかのように書き下ろしてくれたのが、 「そして誰のせいでもない」だった。
僕にも作ることのできなかった、僕らしさをさりげな引き出してくれてたチューン。今回来てくれることだけじゃなく、いろんな「ありがとう」の気持ちをこめてこの曲を歌うことに決めた。





2008年からまた自分のライヴを始めて自分の歌について気づくことがいっぱいあった。恥ずかしながら、今こそやっと 「そして誰のせいでもない」をちゃんと歌えるようになった気がしていた。その2011年ヴァージョン、自分なりに成長したと思える姿を佐野君に見て聞いてほしかった。
もちろんこの歌を歌うことは彼には内緒だった。

あれはまだアルバム「BABY BLUE」の影もかたちもなかった1981年のこと。
7月4日に、佐野元春 withザ・ハートランドが初めて日比谷野外音楽堂でライヴをやることが決定。赤坂バックページ・スタジオでそのためのリハーサルを入念におこなっていたときのことだった。

ある日のこと。まだメンバーがセッティングをしている時だった。スタジオにやってきた佐野君がエレピにすわるなり僕を呼んで、「実は今度の野音では銀次にも歌ってほしい。ぜひ歌ってもらいたい曲があるんだ。ちょっと聞いてくれるかい?」

佐野君がおもむろに弾き始めたのは、ゆったりとした未知のイントロ。
えっ、ひょっとして新曲なのかと思った。聞いたことがないけどとても雰囲気のあるそのイントロにじっと耳をかたむけていたら、彼がそれに続けて歌い出したのは、♪忘れよう 昔のことは 思い出したくない ... 。なんと「幸せにさよなら」だったのだ。

「ナイアガラ・トライアングル vol.1」のヴァージョンとはまったく異なった解釈の、AORなアレンジが、よりシンガーソングライター色を引き立たせていた。歌い終わると佐野君は「どうだい? 僕はこんなアレンジのほうが銀次の声に合うと思うんだけど ... 。」

細くて柔らかい声だけど、銀次にも銀次のロックがきっとできるはずだよと、会った時から機会があればいつもそういって励ましてくれた佐野君。僕は胸がつまって声が出なかった。思いもよらない後輩からのいきな「はからい」がうれしすぎて、どう答えていいのかがすぐには見つからなかった。
そしてひさしぶりにオーディエンスの前で歌うことができた日比谷野音での体験が、 どんなに僕の背中を押してくれたことか。
「BABY BLUE」でのソロ活動再スタートは、佐野君のこの「はからい」がなければなかったと言ってもいい。

僕はとても人との出会いに恵まれているとずっと思ってきた。こうやってuncle-jamをやれているのも、20歳も年が離れているのに、時代を超えてポップスの水脈を共有できる黒沢君と出会えたからだ。
僕が佐野君のザ・ハートランドのメンバーだったことをMCで告げると、 「そして誰のせいでもない」を、オリジナルよりもゆったりとしたテンポで、そして「今」の気持ちで歌い始めた。
彼の前でこの曲を歌うのは、1982年、新宿ルイードでの「BABY BLUE」レコ発ライヴ以来のことだった。
僕の「はからい」に佐野君はどんなことを思ってくれたのだろう?

すべてのライヴが終わったとき、来てくれてありがとうと佐野君に握手を求めると、「とってもよかったよ。君たちはまるでエヴァリーだね。とてもいいコンビネーションだ。」とまずuncle-jamを讃えてくれた。
そして「あの曲とてもうれしかった。」と 「そして誰のせいでもない」を歌ったことに目を細めてくれたあと、「永遠のボーイズ・ソングだよ。とってもいい曲だ。」と、まるで自分じゃない誰か他のひとが書いた曲みたいに、クールに論評していたのが、佐野君らしくて思わず笑ってしまった。


黒沢君は佐野君が来ることを知ってからずっと興奮気味だった。「だって僕がマンフレド・マンを初めて聞いたのが佐野さんのサウンド・ストリート。めちゃくちゃ緊張しますよ。」 黒沢君は、なんと中学生のときにサム・クックを買ったという早熟ポップ少年。佐野君も黒沢君はよく若いのにいろんなことを知っているねと驚いていた。


11) 愛のゆくえ (黒沢曲)
12) 焼いた魚の晩ごはん (黒沢曲)
13) ウェルカム・トゥー・ドリームズヴィル (黒沢曲)


話をソロ・コーナーに戻そう。
9日、10日ともに、僕が先に歌い黒沢君がトリをとった。確か今までは逆だったような気がする。「ソロ・コーナー、順番どうしましょう?」と黒沢君から打診があったとき、僕は考えがあって、今回は僕が先に歌うよと提案した。あえて黒沢君をトリにしてフィーチャーして、「ソロ活動に本腰を入れて行くよ宣言」を、その気持ちが熱いうちにお客さんの前で披露してほしかったのである
慎重の上にも慎重な黒沢君の背中をちょっと押してみたかった。よけいなことをして申し訳なかったが、宣言してしまえばあとは実行あるのみだからね。
互いの元気が互いを元気にさせるように、互いの成長は互いを成長させる。
二人とももっともっと互いにスケールアップしてuncle-jamに帰ってこよう。

ソロ・コーナーは黒沢君のこれから再び始まるソロ活動へのみなさんからのあたたかい励ましの拍手で無事終了。さてここからはuncle-jamの怒濤のオリジナル・ナンバーの嵐。クライマックスは近い。

つづく