1985年に僕がサウンド・プロデュースした6枚のアルバムとは、アンルイスさんの「Dri夢・X-T-C」、早見優さんの「WOW!」、BLACK CATSの 「LOVER SOUL」、バブルガムブラザーズの 「SOUL SPIRIT PART II」、小幡洋子さんの 「南国人魚姫」と、自分自身の 「PERSON TO PERSON」である。

なんとアイドルからロカビリー、ソウル、ブリット・ロックまで、悪くいえば節操がないというか、よくいえば実に幅広いというか、自分で言うのも何だが、どのアルバムもカラフルで、つきることのないアイデアが繰り出されていて今聴き直してもちょっとすごい。やる気にみなぎっていた。

しかもそれだけでも十分過ぎるのに、さらに驚くべきは、そのうえに自分のツアーをもこなし、毎週FM東京で、JFNネットワークの深夜の2時間の生放送「FMナイトストリート」の、そして月に2回はFM大阪まで出かけて収録していた「伊藤銀次のコークサウンドシャッフル」と、2つのレギュラー番組もこなしていたのだった。



この曲を「伊藤銀次のコークサウンドシャッフル」のオープニングとエンディング・テーマに使っていました。ギターはもちろんダニー・クーチマー。


まったく余談だが、「ザ・コレクターズ大頭鑑」の取材を音楽評論家の岡村詩野さんから受けたとき、彼女がこの番組によくハガキをくださった、ラジオネーム「人造人間キカイダー」さんだったことを告げられたときはとてもうれしかった。京都の学生さんだったときによく聞いていてくださったというのだ。
いまでもこの番組だけじゃなく、「FMナイトストリート」をそれぞれの地方で聞いていましたという方達に東京で会ったときは、マニアックな番組だったけど誰かには影響を与えていたんだな、やっといてよかったなと幸せな気持ちになる。

それにしても、ほとんど休みなどない生活で、よく生きていたとさえ思う。
若かったというか、ノリにのってたというか。

それどころか、さらに1986年にはFM横浜の開局と同時に始まった 「伊藤銀次のポップ・ファイル」という、これまた2時間の生放送を担当を引き受けて、レギュラーを3本に増やしているではないか。
これはもうただの仕事好きではないぞ。東洋一のワーカホリック・ミュージック・マシーンだった。

月曜から金曜までの午後10時から11時50分まで、帯で放送していた「ヨコハマ・ラジオ・ナイト」の月曜日が僕の担当曜日の「ポップファイル」。そして別曜日では、松尾清憲くんも「ポップス泥棒」という番組をやっていたっけ。

「ポップファイル」にゲストに来てくださるかたたちには、どなたにも必ず僕とコントをやっていただかなければならないことになっていた。なっていたというか、そうしたのだが、なんと、それは勘弁というアーティストばかりだと思っていたら、みなさん喜んでいっしょにコントをやってくださった。杉真理くんはもちろんだが、山下久美子さん、楠瀬誠志郎君、須藤薫さん、横山輝一君など、すばらしいコントを演じてくださってほんとに感謝しています。
僕の手元にはまだその時の録音のコピーが残っているが、レアなのは元クリエーションの竹田和夫さん。アーティスト・イメージからいって絶対に無理だろうなと、ダメもと晋也カントクでお願いしたらOKが出た。

このOKがあまりにもうれしかったので、この竹田さんの回はスペシャル・ヴァージョン。遠山金四郎が悪回船問屋の大黒屋を、「隣の竹垣に竹立てかけた」という疑いで、お白州で尋問するシーンをやった。
時期的には、ちょうど女性ブルース・ハープ奏者でヴォーカルの橋本ヨーコさんとBoy on rocksを組まれていたときだったので、お二人での出演となった。

これがもう最高だった。演じていても笑いをこらえるのが大変だった。それは竹田さんも同じだったようで、その空気感というか臨場感がまた何ともおかしかった。なにしろ取り調べの内容が、「隣の竹垣に竹立てかけた」という疑いだから大変だ。

まずドドドンという太鼓の効果音の後に、ヨーコさんが
「遠山左衛門尉(さえもんのじょう)さま、ご出場(しゅつば)~」。
そこで金さんが登場。
「一同の者、面(おもて)をあげい。そのほうが隣の竹垣に竹立てかけたと申す者か?」
どうしても噛んでしまう。答える大黒屋も噛まずにはいられない。
「メッソウもございません。なんでわたくしがそのような隣の竹垣に竹立てかけるようなことをするわけがございません。」
「ええい、シラを切ると申すのか。そのほうが隣の竹垣に竹立てかけなけれれば一体誰が隣の竹垣に竹立てかけたというのだ。」(このあとは紛糾していき、そのままフェイドアウト)

これを竹田さんが金さんで僕が大黒屋、逆に僕が金さんで竹田さんが大黒屋というふうに、2ヴァージョン録って放送した。どちらも最高の出来であった。
残念ながら文字ではここまでしか表現できない。竹田さん、無理をいってすみませんでした。
ほんとにありがとうございました。この音源はこのまま封印いたしますので。



こんな映像が上がっていました。Boys on rocksかっこよかった。


あんなおもしろいことはもう生涯に二度とあるまいと思っていたのに、なんとアロハ・ブラザーのアルバムの中で、つい最近ビーチボーイズを吟じてしまうという、これまた未曾有のおもしろい経験をしてしまった。
それはいいのだけれど、ヤマイダレ教授のコントに参加した、佐野君をはじめとするそうそうたるゲスト陣の中で、僕の詩吟にだけリバーブがかかっているのがなぜか恥ずかしい。

おや、思いっきりまた脱線してしまったようだ。
いつのまにかただの「想い出オヤジ」と化してしまっている。
困ったものだが、何が言いたかったのかやっと思い出した。
つまり決してこのハード・スケジュールは誰かに強制されてこうなったわけではなくて、僕自身が望んでやっていたということを言いたかったつもりなのだ。その当時はとにかく仕事が楽しくて楽しくてしょうがなかったのだ。

皮肉なことにそのつけがまわってきたなと感じたのは、ちょうど移籍がきまって「笑っていいとも」のテレフォン・ショッキングのコーナーへの出演が決まった頃だった。吹き出物がにわかにひどくなっていた。
もともと肌のトラブルを抱えがちだった僕だが、その時はかなりひどかった。
せっかくの「いいとも」なのに、なんてついてないんだとも思った。
2月11日の当日はメイクの人に頼んでけっこう厚塗りにしてもらわなければならなかった。

おそらく調子にのって働き過ぎたことによる蓄積疲労に、東芝EMI移籍というプレッシャーが重なって、煙草の本数や酒量が増えていたことも関係があるかも知れない。


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前回にふれたファンクラブ誌に掲載されたレコーディング日記を見ると、当時の僕のバンドのサックスだった黒石君に指示をしている僕の顔が、こころなしか少しむくんでいるように見える。
もちろんアルバム・タイトルは後から決まったのだが、そのタイトルとは裏腹に、けっしていい状態で「GET HAPPY」のレコーディングに入ったわけではなかったのだ。

つづく