「チェリー・ナイトから始めよう」などと軽い感じでスタートしたのに、いざ手元に残っている資料などに目を通しているうちに、まるで蜘蛛の巣とススを払いながらひさしぶりに屋根裏部屋に入り、何年も手を触れることのなかった、ホコリだらけのトランクをいくつも開けたときのような惨状となった。
封じ込めてあった1986年、そしてその前の年、1985年あたりがいっきに紐解けてきて、この何日間か、ここは誰? わたしはどこ?状態にいたのである。

とりあえず順序や何やらを考えていると、いっかな書き出せそうもないので、思いついたところから書いて行くことにしよう。黒沢君にもそのことを話したら「ちょっとずつ書いてくしかないですね」とやさしくアドバイスされたこともあるし。
それに昔から「 仏の顔も三度」というからね。Chotto Matte Kudasaiも三度目はないから。
いさぎよく書いて行くよ。


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かなりテカってるっテカ?スマンの涙である。
しかも、最後のシャッター切る指が震えたので、少しブレてて読みづらいかも知れない。
ここには「伊藤銀次・作曲・編曲・プロデュース・作詞・演奏リスト」と書かれている。

この26穴のクリアファイルには、1972年のごまのはえデビューから、1988年の須藤薫さんのアルバム「More Than Yesterday」あたりまでに、僕が作詞・作曲・ギターを弾いた全曲が日付つきで、そして編曲・プロデュースした作品が、すべて日付、参加ミュージシャン名つきで、書き込まれている。

たとえば、「GET HAPPY」の始まったあたりの、プロデュース/アレンジ・リストの中身はこんな感じだ。


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目のいい人の中には、ご存知の名前を見つけた方もいらっしゃるかも知れない。

今まで何か特別なことでもないかぎり。このノートを開けることはなかったが、今回のリマスター再発の「GET HAPPY」にボーナス・トラックとして収録されることになった小林克也さんとの2曲。「IMAGINE」と「Whatever Gets You Through The Night」のレコーディング・メンバーを調べるためにひさかたぶりに開いた。

両曲ともにドラムを叩いてくれたのがユカリ(上原裕)だというのは憶えていたが、「Whatever Gets You ...」のサックスがダディ柴田さんだったことは、マスタリングのスタジオで音を聞くまで不覚にも忘れていた。
このダイナマイトぶりはどう聞いてもダディさん以外にいないとは思ったけれど、とりあえず自宅に帰って、このノートを開いてやっぱり彼だと確認したときは胸が高鳴った。
ダディ柴田入魂のブロウ。彼がレコーディングで残したプレイの中でも、屈指のプレイだと思う。





このノートが今回の東芝EMIイヤーズの5タイトル秘話を書くにあたって、重要な記憶の裏付けになってくれている。残念ながらなぜか89年以降は書くのをやめちゃったようだ。何はともあれ、88年までとはいえ書いておいてよかった。何でもやっておくといい。後になって役に立つことがあったりするから。

そしてこのノートと共に、今回大活躍してくれたのが、かっての僕のファンクラブ、「Stardust Club」が発行していたファンクラブ誌だった。


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この会報は年4回発行で、もちろんファンクラブに加入していた方達のみ読むことができた。
ちょうどこの1986年6・7・8月合併号に、「レコーディング日誌」が掲載されていて、3月31日の月曜日から アルバム「GET HAPPY」のレコーディングが始まったと書かれていた。

こんなに物持ちのいいはずの僕なのに、なぜか1987年の手帳だけ探したが見つからなかったのである。
それ以外の年の手帳は全部あるというのに。

すっかりあるものだとばかりと思って頼りにしていたのに、これら過去手帳の棚に1987年版が見つからなかった時は、マジにショックであせった。
何度かの引っ越しのときにでもまちがえて捨ててしまったのだろうか?まずそんなことはありえない。そんなことをするわけがないのだが ...。今も理由はわからないままである。

そんなとき、このファンクラブ誌をとってあったおかげで、レコーディングのあらましがやっとわかってほっとした。レコーディングは5月下旬まで続いたらしい。


そして前述のノートに目を通してみて驚いた。なんと「GET HAPPY」 が1986年の初仕事ではなく、すでに1月下旬から2月にかけて、バブルガム・ブラザーズの2ndアルバム「Soul Jamboree」をサウンド・プロデュースしていたのだった。


BGBのその2ndアルバムからはYouTubeにはアップされてなかったので代わりにデビュー・シングルを。なんと私めの作曲・編曲であります。


さらにさかのぼってみると、もっと驚くことが。
なんと1985年に、自分のアルバム「PERSON TO PERSSON」を含めて、合計6枚ものアルバムをプロデュースしていたのだ。確かに忙しかった記憶はあるがここまでとは ... 。2ヶ月に1枚のハイペースではないか。
あの頃佐野元春が、「銀次はワーカホリックだから」といっていた意味がやっとわかった。

つづく