1982年からお世話になったポリスター・レコードを1986年に離れることになった。
けっして大きくはなかったが少数精鋭、1982年の「BABY BLUE」以来、当時レーベルにポップス系アーティストが少なかったことや、若いスタッフが多いこともあってか、みな一丸となって僕を応援してくれた温かいレコード会社だった。
そんなわけで、僕の当時のオフィス、アニマル・ハウスのスタッフが、さらなる銀次のステップ・アップを計るために、移籍はどうだろうというアイデアを告げてきたときは、ちょっと複雑な心境だった。

小学生の頃から坂本九さん、クレージー・キャッツ、加山雄三さんなど、日本のレコード会社の中でも抜きん出てヤング&ポップな印象を放っていた東芝EMIの前身、東芝レコード。
そしてビートルズやデイヴ・クラーク・ファイヴ、ピーターとゴードン、ジェリー&ザ・ペイスメーカーズ、ホリーズ、アニマルズ、マンフレッド・マンなど、僕のポップス熱に火をつけた数々のアーティストがいた、オデオン・レーベルを抱えていたレコード会社、東芝EMIに移籍できるというのは。まるで夢のような出来事だったのだ。



オデオンは僕のルーツ、マージー・ビートというか、リバプール・サウンドのメッカでした。


憧れのレーベルのアーティストになれるといううれしさと武者震い、大メジャーだというプレッシャーからくる緊張、そして一抹のさびしさと引かれる後ろ髪がないまぜになった、何ともいえない心境だった。

かって僕を育ててくださった木崎さんも、もうとっくにスタッフを離れていた。彼から学んだものを生かして、自分のカンや目利きで自分自身をプロデュースして、また新しい地表へ踏み出して行かなければならなかった。

ポリスターでの最後のアルバム「Person To Person」で思いきって打ち出したロック路線には、ファンのみなさんの間で賛否両論あったようだ。移籍第1弾を制作するにあたっては、少し慎重になりいろいろな気持ちの間を行きつ戻りつしたが、やっぱり前に進むことしか考えられなかった。
一度踏み出した「BEAT CITY」そして、「PERSON TO PERSON」から前の時代に戻ることは、僕の中のアーティストとしての意地が許さなかったのだ。

「BABY BLUE」から「STARDUST SYMPHONY」に至るポップロック3部作は、僕がティーンエイジャーの頃から、ずっと体の中にため込んでいて、タイミングを逸して体外に出せなかったメロディーやサウンドをやっと形にすることができた、銀次型ポップスの生成期。
そして「WINTER WONDER LAND」はそのエンディング・テーマのようなもの。3枚のアルバムを支持してくださった方達へ感謝をこめたグリーティング・カードだった。



もちろんこのスタンダード・ナンバーのタイトルからインスパイアされたものでした。


このアルバムでひと呼吸おいたら、新たな気持ちで「BEAT CITY」から、ギター・ロックの側面を全面に出して、もうちょっと硬派なアプローチをしてみたかった。それが「PERSON TO PERSON」へと流れていく、ポップな銀ちゃんからロックな銀次への大転換だった。

今ふりかえれば、何もそんな冒険をしないでも、せっかく作り上げたポップンロール3部作を、そのまま大切に継続して行けばよかったのかもしれない。
そのほうがアーティストとして、より賢明な生き方だったのかも知れない。
だけど、あの80年代に起こった、MTVの登場に端を発した、とめどない百花撩乱の英米のポップス/ロック・シーンの急速な変化そして進化と無関係なところで音楽を作ることは、あの頃の僕にはむずかしかった。自分の音楽も、英米の「今」といっしょに並走していたかった。
生意気かも知れないが、日本のポップス軸と英米のポップス軸の、二軸の中で自分の音楽をとらえていたかったのだ。
なにもそんな大それたことをと、今の何の波風も立たないJ-POPの時代に立っていると、そう思うかたもおられるかも知れないが、そんな気になってしまうほど、80年代の音楽状況はふつふつとアクティヴだったのだ。

打ち込みによるシンセサイザーやサンプラー、リンなどのドラム・マシーンの響きが当たり前のように、多くのポップスから聞こえ始めていた。
新しいテクノロジーが音楽の組み立てそのものを新鮮にし、ポップスの未来の可能性を感じさせた時代。今振り返ると、とても特殊な時代で、これと同質の時代はもう来ることはないかもしれない。

ブリティッシュ・インヴェージョンが最初に襲った83年にニューヨーク生活を送り、日本の音楽シーンに新風を吹き込んだ佐野元春も、たぶん同じような気持ちで、80年代を行きていたにちがいないと思う。もっと言えば、ロックンロールが生まれたアメリカ、ビートルズを生んだイギリス、そして僕たちがいた日本の、3軸の間で、僕たちは常に音楽を考えていたかったのかもしれない。



トニー・マンスフィールドやトーマス・ドルビーに少し先駆けて、80年代型のポップスのパイオニアでした。彼らも源流のひとつです。


「PERSON TO PERSON」でいったん、僕の中の硬派なロック心を掘り起こし確認したあとだったので、それ以上、もっと深くハードな音楽を作って行く気はまったくなかった。
それよりも、この移籍をきっかけに、かなりポップなものを作ってみようと心に決めた。

ただ「あの」ポップに戻るのではなく、1986年の最新のポップ・ロックの匂いのするものを模索してみようと思った。すでに「Stardust Symphony」あたりから、いや厳密にいうと「SUGAR BOY BLUES」の「Audio Video」で取り入れていた打ち込み色をもっと前に出して、来るべき90年代を目線に入れたモダン・ポップのアルバムを作ってみたい。そんな気持ちで始めたのが「GET HAPPY」だった。





最初に手を染めた曲は、アルバム冒頭を飾る「チェリー・ナイト」だ。
始めてのアルバム・ミーティングのときに、ディレクターのジャンボ佐藤さんが何気に口にした、今、ウォーの「シスコ・キッド」みたいな曲が面白いんじゃないのという一言が妙に耳に残っていた。





昔から好きな曲だったし、何かそのアイデアに理由もなく惹かれて、何度か「シスコ・キッド」を聴き直しているうちに、サウンド全体から「エッチラオッチラ、エッチラオッチラ」みたいなノリが聞こえてきた。そのノリでベースラインを作り、それに合わせてドラムのパターンを考えて、録音した。
何度かそれを聞くうち、スケールがマイナーで、コードもAm - D7なので、少し泥臭く重く、僕がこのアルバムでイメージしていたものとはかなりかけ離れたものだった。
こりゃだめだなとそのアイデアを捨てようとした時、これをメジャー7thに変えてみたらと突然思いついた。まったく根拠のない単なるヒラメキ。
きっと、その頃よく聞いていたスタイル・カウンシルの「My Ever Changing Moods」の影響ではないだろうか?




いまスタカンのこの曲を聞いてみると、なんとなくいろんな部分が「チェリー・ナイト」と似ているが、ちゃんとちがう曲になっているのは、そもそもの発端がウォーだったことが大きい。
そこからコードをメジャー7thにしたことによって、僕の中のスタカンの残像みたいなものが、知らずのうちに反映してきたのだと思う。
僕は作曲する時も、編曲する時も、頭の中に聞こえてきたものしか採用しない。

そして出来上がったスケッチを次のミーティングのとき、スタッフに聞かせた。ところがジャンボさんが思い描いていた「シスコ・キッド」みたいな曲は全然ちがうイメージだったようだ。
でもひょうたんから駒というか、爽やかなモダン・ポップ第1号が生まれて、プレッシャーの中、幸先のよいスタートが切れた。やっと制作のとば口に立ったばかりのこの時点では、まだアルバム・タイトルは影も形もなかった。もし1曲目が「チェリー・ナイト」でなければ、別のタイトルになっていたのではないかと思うくらい、この曲は「GET HAPPY」な感じを醸し出していて、今までの僕にはなかったテイストだ。

最初に作ったのが「チェリー・ナイト」だということだけは鮮明に憶えているが、残念なことにそれ以外はまったく順序をおぼえていない。なので次回からは、曲順に語れるかぎりのことを語って行くとしよう。