今回は、2つの話がねじれながら交点を結ぶことになる。

「サンデー銀次」8月19日号 「 自由に歩いて愛して 」の最後にあったように、京都で出会った徹兄いというスーパー・ボーカリストを得て、ユカリ(Drs)、朝倉さん(Bass)、僕 (Gtr) のグラス・ブレインというハード・ブルース・ロック・バンドは、早速,神戸のシャルマンというディスコテークで演奏を始めた。1970年のことである。
まだライブ・ハウスなんかまったくない時代、バンドが演奏してお金がもらえるのは、ディスコかゴーゴーホール、お客さんを踊らせるために演奏する場所しかなかった。

お店に出て2日目、徹兄いが突然消えた。好きなときに歌っていた京大生だから、あまりのディスコの非人間的状況につらくて逃げちゃったのだ。さあ困った。お店にはメンバー4人で話をしているから、4人ステージに上がってないと契約違反になってしまう。その時、僕らのマネージャーでトランポをやってくれていた末永博嗣君にタンバリンを持たせて、頭数だけ揃え、とりあえず僕が歌いながらブルースを弾き、なんとか凌いだ。このスタートのつまずきは,その後のバンドの不運を象徴していた。





ずっとタンバリンばっかりでもヤバイのでヒロシ君に何か歌えないかと尋ねたら、スティーヴィ・ワンダーの「A Place In The Sun」が好きでよく歌っていたと言う。じゃあそれを演ろうということになり、ヴォーカル末永博嗣の誕生となった。のちのごまのはえのヴォーカリストである。徹兄いが逃げてなければない話。人の運命と言うのはわからないものである。

ある日、僕らがシャルマンに出ていた時、小柄で目つきの鋭い青年がやってきて、「セッションせーへんか?」という。朝倉さんはよく知っているようで、じゃあキーはEのワンコードで、とただそれだけの決めごとでワンステージ1曲を演奏した。もちろん即興演奏。彼は思いついた英語で歌い叫んでいた。
たった一度きりのセッションだったが、その独特のルックスとしわがれた声は忘れられるものではなかった。彼こそ若き日のもんたよしのりさんだった。

ディスコテークのシャルマンは今はもうなくなったが、あれば生田神社のそば、神戸チキンジョージのすぐ近くだった。チキンジョージに来るたびにその頃のことを思い出してしまう。

驚いたことに、19日の「Moment Summer Session 2011」を、なんとそのもんたよしのりさんが見に来られていたのだ。
なにやらモメカルの噂を聞いて見にこられたようだ。
この日遊びに来ていた増田俊郎君が「もんたさんご存知ですか?」と聞くので
「ずっと昔、一度だけ会ったことがあるけどたぶん憶えてないと思うよ。」
じゃあと増田君にあらためて紹介してもらったが、やはり憶えておられなかった。

その時のセッションの話をすると「自分、シャルマン知ってんねや?」とすごいうれしそうだった。
「これはひとつの日本のロック・ヒストリーやで」
しばし大村憲司さんやヘルプフル・ソウルや、天野SHOさんなど、神戸のゆかりのミュージシャンの話に花が咲いた。



この曲を初めてテレビで見たときはびっくりした。「セッションせーへんか?」の彼だったから ...。


下田逸郎さんは僕がりりいさんのバイバイ・セッション.バンドにいたときの心の師だ。あの大きな目で僕のことをじっと見て、ぐるっと回ってきて後頭部に命中するような、婉曲だが心に響く言葉が啓示的だった。今でも視点が独特でブレない。

増田俊郎君はなんと僕のレーベル・メイトだった。日本に3アーティストしかいない日本アサイラム・レーベルの3番目のアーティスト。日本アサイラム契約第1号が僕。第2号は女性アーティストらしくて、3番目の増田君で日本アサイラムはなくなったので、3人しかいないわけだ。このエピソード、僕はえらく気にいっちゃったので、せっかくだから増田君と「アサイラムズ」を結成してしまった。もちろんジャクソン・ブラウンやイーグルスを演るバンドだ。





佐藤奈々子さんともはじめてゆっくりお話ができてよかった。奈々子さんと話していると日常の妙なこだわりが消えて行く。ほんとに気取らないまっすぐな人なんです。国際フォーラムや佐野君のことについてもいっぱい話した。
僕と佐野君は感性はちがうけど、考え方がとても似ているとおっしゃっていたのが印象的だった。

あー、あっというまに過ぎて行くこの濃い~人たちとの楽しい時間。眠りについたのは朝の4時を回っていた。