沢田研二さんはたぶんお気づきではなかったと思うが、実は 「G. S. I Love You」のレコーディングでお会いするはるか10年前に、僕は京都で沢田さんと接近遭遇していたのであった。「 G. S. I Love You」最終章前の寄り道話をもうひとつ。
とはいえ、前回も書いたように、話題としてはけっして遠いわけではない。

タイムマシーンの目盛りをタイガーズ・デビュー前の1966年からちょっと進めて、ザ・タイガース解散の年、1970年へ飛ぼう。

1970年の京都はロックの街だった。現在はそんな面影はどこにもないが。
元々学生の多い街、音楽、アートなどを目指す若者が全国から流れてきて、いつしか「日本のサンフランシスコ」などと呼ばれるようになっていた。



ママス&パパスのジョン・フィリップスが書いたヒッピー讃歌。サンフランシスコは愛と音楽の都として憧れだった。


同じ年、大阪でアマチュア・バンドをやっていた僕は、4月に福岡風太の主催する「BE-IN LOVE-ROCK」(天王寺野外音楽堂)というロック・コンサートに出演したのがきっかけで、彼と意気投合、僕もスタッフとなり自らも出演する8月の「ロック合同葬儀」(大阪城公園・太陽の広場)というイベントに参加した。それは僕たちにとってのウッドストックのようなイベントで、この考え方が発展して、いまでも続いている「春一番」になっていった。

そのイベントのあたりで、ドラマーの上原“ユカリ”裕に会った。僕が19歳、ユカリは16歳。後のウェストロード・ブルースバンドの松本照夫、ストーンハウスのトシボウと共に、3人は,その頃の京都3代高校生ドラマーとして名を馳せていた。

ユカリの地元は京都。「ロック合同葬儀」も終った頃、やっと決心がついて、僕は学校をやめて、プロのミュージシャンになろうと思った。
「BE-IN LOVE-ROCK」で知り合ったセミプロのベーシストの朝倉さんから誘われたので、「ハウスグラス・ホッパー」というバンドを脱退したばっかりだったユカリも誘って、あとはヴォーカリストを見つけるばかりとなっていた。

ユカリの実家に遊びにいったりしているうち、京都には何か惹きつけられるものがあり、しばらく京都に住んで、ヴォーカルを探すことになった。
2月19日号の 「uncle-jam京都へ 」 の回で、ふれているように、銀閣寺あたりに住んでいたユカリの友達で京大生のトオル君のアパートにしばらく居候させてもらうことになった。

そんなある日、ユカリが、近々ばかでかいロック・コンサートが京都で開かれるという。「円山オデッセイ」という名前で、フラワー・トラベリング・バンドも来るらしい。しかもユカリは「裸のラリーズ」というバンドにドラムで出るという。なかなかヴォーカルが見つからなくてぼちぼち大阪へ戻ろうかと思っていたけれど、とりあえずそのイベントだけは見ておこうと思った。

コンサート当日は快晴。円山音楽堂は満杯。胸まである長い髪をヒッピー風なヘアバンドで止めてインド衣装の僕は、裸足で会場をうろうろしていた。東京から来ているビッグ・ネームから地元京都のバンドまで、次から次へと熱い演奏を聞かせる。確かにユカリがいうように、こんな大きなロック・コンサートは初めてだった。

と、ゆかりがやってきて、彼の友達のトシボウがドラムを叩いているストーンハウスも今日出演するのだが、ギタリストが急に来れなくなったので、銀次、代わりに弾いてくれないかというのだ。今の音楽シーンでは考えられないことかもしれないが、この頃のバンドの流行はインプロビゼーション。キーをEとかAに決めたら、ワンコードのままで即興でフレーズを繰り出していく。ヴォーカリストもそのときにひらめいたままに歌う。形になった曲を崩して行くことに、ニューロックという名の自由さを体感しする。それがカッコよかったのだ。

ストーンハウスも徹(てつ)兄いというパワフルなヴォーカリストの即興のソウルフルなヴォーカルが売りのバンド。あまりに急な話で戸惑ったが、こんな大きなイベントに参加できるなんて滅多なかったこと。誰かにレスポールを貸してもらい出ることにした。



映画「The Commitments」のヴォーカル役のアンドリュー・ストロングが、見てくれも声も、徹兄いに近い。


もう何が何だかわからないままに終わってしまった。まだ若かったからまるでウッドストックかどこかで演奏しているような気分だった。
生まれて初めて弾いたレスポールを返して、また観客に戻った。

イベントはさらに進行し、やがてその日の目玉、フラワー・トラベリング・バンドのライヴが始まった。。その途中でなぜか僕はステージの下手の階段を降りた袖のほうに歩いて行った。今のようにバックステージ・パスなどなくてもうろうろできたから。
と、そこに、そこからステージをじっと見守っている青年がいた。その日の出演者はみなどこかヒッピー風の髪型やファッションなのに、どこかこぎれいな感じの彼、ステージ横に立って出番を待っているふうな彼の面立ち、どこかで見たような ... 。ジュ、ジュリーだっ。なぜかこんなところにジュリーがいるのだった。
(当時の自分の気持ちを出したいために、あえてジュリーを連呼しています。沢田さんと書くべきなのですが感じが出ないのであえてジュリーと書いております。失礼をお許しください。)

と、「今日はすばらしいロックな仲間がきてくれてるから紹介する。沢田研二!」、という内田裕也さんのMCがあってジュリーはステージに上がって行った。そのときタイガースの解散が発表されていたかどうかは僕には定かではないが、これから新しい世界に踏み出す沢田をよろしくとおっしゃっていたような記憶がある。

ジュリーがステージに上がった瞬間から、「帰れコール」が起こった。その中で沢田さんはグランド・ファンク・レイルロードの「Heart Breaker」を歌い始めたが、「帰れコール」は止むことないどころか、空き缶やいろんなものがステージに向けて投げ込まれた。





大手プロダクションの所属だったことや、グループサウンドというアイドルだったことが、おりからのニューロックの時代に、ある意味でジュリーは反体制の象徴にされていたのだろう。いわゆるスケープゴートだった。
だがこの心ないロック・ファンたちは忘れている。グループサウンドが日本のロック・シーンへの切り込み隊で、その影響で音楽シーンが変ってきたことが、その後のニューロック・ブームにつながっていたことを。敵があるとしたらそれまで音楽環境なのであってGSはニューロックの敵ではなかったはずだ。
時代がようやくロックに追いつき始め、ジュリーも新しい地平を目指そうとしていた。翌年あのスーパー・グループ、PYGを作った。
どこから来ようともこれからどこへ向かって行くのかが大切なことではないのか? その自由がジュリーにはないというのか?
これからジュリーがどんなことを始めるのかをなぜ静かに見守ることができないのだろう。物が投げられ、止まらない「帰れコール」が悲しくて、憤りが押さえられなかった。浴びせられる罵声の中、それでもジュリーはHeartBreakerを歌い続けた。
その日は、ロック・ファンの偏狭さと保守性に疑問と幻滅を感じた忘れられない日だった。



堯之さんの弾くギターのイントロが大好きだった。今聞いても輝きのあせない名曲。


翌1971年、沢田研二、萩原健一、井上堯之、大野克夫、岸部修三、大口広司によるスーパー・グループ、PYGが結成された。
スパイダース、テンプターズ、タイガースからのピック・アップ・メンバー、グループ・サウンドの中心人物たちの、新しい時代への自然な対応だった。欧米では既存のバンドからそのリーダー格が抜けて、スーパーグループを組むのがトレンドになっていたその流れとも呼応していたが、 PYGは期待ほどは残念ながら支持されることはなかったようだ。

結局、その徹兄いが僕らのバンドにリード・ヴオーカルで入ることになり、僕らは京都を去る。そして僕の新生グラス・ブレインの苦難に満ちた活動が始まるのだが、それはまた別の機会にでも。

     つづく