今日も売野雅勇さんとのコンビのお話の続き。ちょっと自分のアルバムの話からはずれる。

1982年の春に、沢田研二さんの「A Wonderful Time」というアルバムで、「おまえにチェックイン」を含む4曲を編曲させていただいた。そのときプロデューサーの木崎さんから「あなたに今夜はワインをふりかけ」みたいな曲を書いてほしいといわれた。自分なりに意識して作ったつもりだったが、編曲も含めてエレクトリック・ライト・オーケストラみたいになってしまった。それをしっかりと言葉でジュリーの世界へ引き戻してくれたのが、売野雅勇さんの「素肌に星散りばめて」という詞だった。売野さんと組んで他のアーティストに提供した曲では一番好きな曲だ。





話を戻そう。昨日の「SHADE OF SUMMER」で肝心なことを書くのを忘れていた。
なんとあの素晴らしい詞に僕がダメ出しした箇所があるのだ。それは「ブレてる」という言葉だった。

その破裂音の響きが好きになれなかった。そこまでの「最後のシャッター」からの一連の美しい響きが、この「ブ」という音で壊れるような気がしたのだ。
何度か歌ってみるものの、一度できあがった先入観は変えられない。どうしても納得がいかず、売野さんにこの「ブレてる」をちがう言葉にしてほしいとお願いした。これ以外にこのニュアンスを表す言葉が他にあるわけがないのに。当惑しながらもトライしようとする彼を制して、プロデューサーの木崎さんが
「歌い方じゃないの。このブレてる、ひっかかりがあってすごくいいと思うよ。」

それまで自分で詞を書く時に一番気にしてきたのは言葉の響きで、意味よりも大切だと思っていた。その美学からいうと、この詞はまったく想定外だったわけだ。
結局半分納得しないまま、それでもアドバイスにしたがって、「ブ」の響きがよくなるように歌ってみた。歌のOKが出てプレイバックを聞いた時にやっとわかった。メロディーと言葉がちがうベクトルを持っている、聞いたことないスリルだった。共同作業でしか生まれないスリル。あの時うっかり変えなくてよかった。ブレてたのは僕のほうだった。

「BABY BLUE」を春にリリースしたのに、もう秋には「SUGAR BOY BLUES」を発表した。短期間にアルバムを作らないと、アレンジャーの片手間だと思われる。本気のアーティスト活動だと認識してもらうためにがんばった。結果、2年で4枚もアルバムを作った。
ひき続き、ポリスターでの2ndアルバム「SUGAR BOY BLUES」にも売野さんに参加してもらった。売野さんが書いてくれたのは次の7曲である。

06) 恋のリーズン
07) Night Pretenders
08) シンデレラリバティなんて恐くない
09) 真冬のコパトーン
10) Sugar Boy Blues
11) Audio-Video
12) Hang On To Your Dream

すべて僕が先に作ったメロディに、売野さんがあとから詞をつけてくださった。
07) は佐野君の「ガラスのジェネレーション」のサウンドが、半分は僕の色合いだということを、音で示したくて作った。





まさに佐野君を大人にしたようなタッチの詞。僕ののぞみどおりの詞を書いてくださった。♪まるで夏の終わりのようさHello Stardust city の下りが好きだ。それにしても、かなり都市生活者の気持ちを先取りしていた詞ではないだろうか。

08)は、サビの言葉とメロが突然おりてきて、「♪Oh Baby Baby シンデレラリバティなんて恐くないさ」と発作のように木崎さんに歌ったら、そのままのタイトル、フレーズでいいんじゃないということになった。それをお題として売野さんに全編を書いていただいた。
山下久美子さんに書いた「メリーよ急げ」と似た曲の形。「メリーよ急げ」はエンジェルスみたいな曲をめざしたが、「シンデレラ ...」はさらに、それにフレディー・キャノンのパーティー気分を足してみた。




Audio-Videoも同じくサビの言葉とメロがいっしょに出てきた。そこから中身を売野さんに広げてもらった。
メロディーは大好きだったカーズのイメージ。サウンドはトニー・マンスフィールドのニュー・ミュージックの影響。詞も相まって「プラネット・ガール」に続く近未来SFポップになった。





「Sugar Boy Blues」には名探偵ポアロの名前が出てくる。おしゃべりだから、売野さんとの会話の中で、ミステリー好きなことを話したのかも知れない。決めぜりふの「やさしいだけじゃ愛はつなぎとめられない」というフレーズは、どことなくチャンドラーの「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格はない。」を思わせる。僕がハードボイルド好きなのを、なぜ売野さんがご存知だったのかは今となってはわからない。

このアルバムのハイライトは「真冬のコパトーン」だ。
「BABY BLUE」の頃、実家に帰ったら急に昔かよった小学校がどうなってるのか確認したくなった。
昔、その小学校は小高い丘の上にあり、まわりは田んぼばかりだったので、産業道路から見とおすことができた。産業道路沿いの市立病院の横から、周囲を田んぼに囲まれた道をのぼり小学校にかよったものだ。

来なければよかったと思った。産業道路からもう学校はまったく見えない。田んぼはすべて住宅に変り、小学校の周囲は見る影もなく変化をとげていた。たった20年ほどでこんなにも変ってしまうものなのか ... 。
さびしい気持ちで家路をたどったが、不思議にも、心の中のあの頃の景色は色あせることなく、むしろ前よりも鮮やかにリアルに息づいていることに気づいた。そんな経験を売野さんにお話しした。この気持ちを歌にできないかと。そしてできてきた詞が「真冬のコパトーン」だった。
過ぎ去っていくものはもう戻ってこないけれど、心の中の思い出は変わらず生き続けることを、僕のかわりに見事に形にしてくださったのだ。





売野さんにとっては幸せなことに、ぼくにとっては残念なことに、チェッカーズのヒットなどで、売野さんはだんだん忙しくなってきた。続く「STARDUST SYMPHONY」では、「風のプール」1曲しか書いていただけず、そのままそれが最後の曲になった。

「STARDUST SYMPHONY」には少しテーマ性を持たせようと思った。「風のプール」はテーマ性の中のちょっとした休憩所のイメージだったので、あまり思い入れがなかった。
「I Stand Alone 2009」の選曲のさい、ファンのかたたちからリクエストを募ったところ、この曲への要望が高かった。ひさしぶりにセルフコピーをしてみた。いっさいの装飾を取り去りギター1本で歌ったとき、売野さんの詞が僕の中で輝きはじめ、遅ればせながら、この曲の本当の魅力に気づくことができた。


$伊藤銀次 オフィシャルブログ 「SUNDAY GINJI」 Powered by Ameba


売野さんの名前が世に知れ渡った頃のこと。そのときのマネージャーがたまたま売野さんの特集番組を聞いたという。その中で、銀次さんとの仕事の中で学んだことがその後の仕事に生きていますと、おっしゃっていましたよと教えてくれた。照れくさいので、へえ、そうなんだとそのときは平静を装っていたが、心の中はもちろん感激でいっぱいになっていた。