銀次の作詞家コネクションが、「サンデー銀次」3月5日号「雨のステラ」で止まったままになっていた。読者のみなさんから反響もあったし、僕自身もノリノリで書き進んでいたところに、3月11日の震災。気分が失速してそれ以降、復活のタイミングを逸したままになっていた。
そうこうしているうちに、来月の「I Stand Alone 2011」の東京&大阪公演が近づいて来た。
そのライヴに向けて僕自身のモチベーションを上げていくためにも、作詞家の方とのエピソードを通して自分の作品をふりかえるという意味でも、やっぱり再開しようと心に決めた。
楽しみにしていたみなさん、大変長らくお待たせいたしました。それでは作詞家コネクション、いよいよ銀色夏生さんの登場です。





アルバム「STARDUST SYMPHONY」の1曲目を飾る「ハートブレイク片手にダンスに夢中」。
この曲の詞をつけてくださったのが銀色夏生さんだ。
いまだから告白するが、この頃の僕はまるっきりサウンド志向だったから、はっきりいってこの曲を作ったときはサウンドのことばかりで、言葉のことは、まったく考えていなかった。

この曲を作ろうというきっかけになったのはアダム&ジ・アントだ。
ちょうど沢田研二さんの「ストリッパー」のレコーディングでイギリスに行った頃、モノトーンだったロンドンがまたカラフルさを取り戻そうとしていた。「ニュー・ロマンティック」と呼ばれたトレンドが巻き起こり、デュラン・デュランやクラシック・ヌーボー、アダム&ジ・アントなどが現れ活気づいていた。
そのまっただ中、彼らの「Dog Eat Dog」を聞いた。





もっぱらそのメイクやコスチュームなどの現象面でばかり話題になっていたが、僕はそのドンコドンコドンコドンコいわせてるジャングルビートがおもしろくて、いつかこんなリズムの曲を作ってみたいと思っていた。やがてアダム・アントがソロになり発表した「Goody Two Shoes」を聞いた時、ジャングルビートの下敷きの上で、いろんなものが焦点を結んだ。





「Goody Two Shoes」はぼくにはビル・ヘイリーの「Rock Around The Clock」や、グレン・ミラーの「In The Mood」みたいなスィンギーな音楽の80年代ヴァージョンにしか聞こえなかった。
これはいい。だんだんとライヴにも意欲が湧いていた頃だったから、「スターダスト・シンフォニー」というロックショーのオープニングにこういうダンサブルなのを持ってこよう。いままでにないアルバムとコンサートのオープニングだ。みんな喜んでくれるにちがいないと思った瞬間に、僕の頭の中のいろんなパーツがしゃっしゃかと寄せ集ってきたのだ。
イントロを考えていたら、なぜだか70年代に好きだったキャーンド・ヒートのブギみたいなフレーズが聞こえてきたのには笑った。僕の頭の中はまるで、がらくたもお宝もごちゃまぜにひっくりかえったままの屋根裏部屋みたいだ。





とにかくイメージのおもむくまま、ふくらむままにサウンドが出来上がり、それを銀色さんに投げた。
はっきりいって丸投げに近い。いったいどんな詞がついてくるのかはまったく未知数だった。

彼女の作詞家としての代表作、大沢誉志幸君の「そして僕は途方に暮れる」にも顕われているように、彼女の表現には、ちょっとぶっきらぼうに感じるほど、よけいな思いいれがなく、思いを語りすぎないその乾いた言い方がよけいに、もう起こってしまった出来事が戻らないことをリアルに感じさせている。

それはメロディですでに満たされている湿り気をさらに強調しないで、メロディが語れない事実を詞が付加することによって、相乗効果を生み出すことを、彼女が理解していたということなのだろう。
それがメロと詞が生み出すマジックなのである。

彼女からの詞があがってきたとき、そして歌ってみた時、その言葉の軽やかさ、ドライな言い回しが心地よかった。特に「ラストチャンスからビギナーズラック 乱れてもつれたミュージカル」は特に好きな1行。歌っていても唇が楽しい。なのにただのロカビリーにならないセンシティヴィティーに裏打ちされている。
白眉はタイトルの♪ハートブレイク片手にダンスに夢中 ... の見事な語呂。まるで詞先みたいだ。


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この写真は1985年に発行された、月刊ミュージック・ステディ誌の別冊「FILE」である。
ミュージック・ステディに掲載された佐野元春、浜田省吾、杉真理、伊藤銀次のそれぞれの特集を1冊にまとめたもの。今回の銀色さんのことを書くのに忘れていることはないかと、引っ張り出して来てチェックしてみた。

あらためて調べ直してみると、僕の記憶に大きなまちがいがあったことに気づいた。
2011年2月21日号「SHADE OF SUMMER」で、僕に売野雅勇さんを紹介してくださったのはプロデューサーの木崎賢治さんだと書いたが、「FILE」によれば、佐野君のようなスタイルで、もう少し大人なタッチで詞が書ける人はいないかと僕が相談した相手は、エピックレコードの当時の佐野君のディレクターだった小坂洋二さんだったようだ。ほんとに人の記憶はいいかげんなものだとつくづく思った。
小坂さんと言えば、実は銀色夏生さんも、小坂さんが発掘した作詞家だったのだ。

小坂洋二さんは、佐野元春、渡辺美里、TMネットワーク、大江千里、岡村靖幸を発掘し育てた名プロデューサー。今日のエピック・レコードの礎を作ったスタッフのお一人だ。
その小坂さんが、宮崎から送られてきた銀色さんの詩に目を留め、その才能を見抜き、東京に出てこないかと声をかけられ、それで彼女が上京してきたという話を当時聞いたおぼえがある。
その彼女の存在を小坂さんが木崎さんに紹介したようだ。

沢田研二さんの「G. S. I Love You」のサウンド・プロデューサーを探していた木崎さんに、佐野君の「Back To The Street」を聞かせて、僕を紹介してくださったのも小坂さん。いろんな形で小坂さんにはお世話になっている。いまさらですがとても感謝しています。

その小坂さんの持っていた銀色さんの詞のリストを見せていただき、おもしろいと思った。
そこには、沢田研二さんの「晴れのちブルーボーイ」の中に出てくる「言いたいことはヤシの実の中」などの、わくわくするような新鮮な言葉達の断片が書かれていた。
それを見た僕と木崎さんは、即座に「BABY BLUE」、「SUGAR BOY BLUES」につづくアルバムで彼女に詞を書いてもらうことをお願いしようと決めた。

続くポリスター・レコードからの3枚目の「STARDUST SYMPHONY」がリリースされたのが、
1983年4月25日だから、初めて銀色さんに会ったのは、1982年の終わりだったか1983年の初めだったか。はっきり出会いのシーンは覚えていないが、多分1982年末のことだと推測する。
ただひとつはっきり覚えているのは、山元みき子として紹介されたことだ。彼女の本名である。
いまではすっかりおなじみになった「銀色夏生」というペンネームはこの時点ではまだ世に存在していなかったのである。

レコーディングが始まり進行するどのタイミングだったかで、僕が本名で行くの?と彼女にたずねたことがあった。あれは新宿御苑のテイクワン・スタジオだったと思う。

そのときはまだ決めてないというお返事。山元みき子でも全然問題ないと僕は勝手に思っていた。
そして運命の日。さらにレコーディングが進んだある日のことだった。
「わたしこの名前で行くことに決めたの」と紙に書かれた文字を僕に見せてくれた。
断っておくと、銀色さんだけでなく、木崎さんチームはエンジニアのトッピーこと飯泉俊之君もみんな年齢は僕や木崎さんより若いけどタメグチがOKな、フリーな空間なのだ。

話を戻そう。そこには「銀色夏生」ときっぱり書かれていた。

一瞬目が点になってしまった。自意識過剰かも知れないが、その四つの漢字の中で特に「銀」の字だけが他の文字をさしおいて僕の目にしっかと飛び込んできたのだ。
えっ? 「銀」?  その「銀」て、まさか ... 。

             つづく