玉子かけご飯のことをTKG と略すらしい。ということは、「今日のAGは、TKGにAH、あたたかいTMSをつけていただいた。」なんてことになるのかね。翻訳すると「今日の朝ご飯は、玉子かけご飯にアジの開き、あたたかい豆腐の味噌汁をつけていただいた。」となる。僕はKYとかよりジミヘンや乗変、オザケンのほうが肌触りがあって好きだ。

黒沢君から借りているグレン・ティルブルックのDVDがなかなか見れない。なんだかんだやることが多いのに、僕の好奇心が新しい本を手にしてしまうからだ。
武蔵小山アゲインのHPで石川さんが紹介されていた、平川克美さんの「移行期的混乱 経済成長神話の終わり」が面白そうで、打ち合わせで青山に出かけた帰り、渋谷のブック・ファーストでゲットした。
タイトルから想像すると難しそうだが、吸引力のある文章で、冒頭からずんずん話に吸い込まれていく。ビジネス書コーナーにあったのに、「本書はどう見積もってもビジネス書という範疇には入らないだろう。」という書き出しが気に入った。
内田樹さんのまえがきも単刀直入で好きだが、この書き出しもズバッとミットのど真ん中だ。平川さんは僕と同じ1950年生まれ。そして石川さんも内田さんもみな1950年生まれ。ズバッとミットのど真ん中は1950年生まれの特徴かも。
そのビジネス書コーナーでは一棚使って内田さんの特集をしていた。悪い癖がでて思わず手をのばしそうになったが止めた。内田さんの未読書がまだうちに何冊もあるからだ。
ああ、もっと早く本が読めたらなー。

茨木のり子展が終わってしまった。迷っているうちに最終日が来てしまったのだ。なんで迷ってたかというと、単純に遠いからである。
開催地は群馬県立土屋文明記念文学館で、高崎市まで行かなければならない。ちょっとした小旅行でやっぱり行きそびれた。
70年代に「生きているもの死んでいるもの」「海を近くに」などのすばらしい詩に触れた。青木ともこさんとのユニットでは、「六月」という作品に曲までつけさせていただいた。
好評だったのだろうか?ぜひ東京圏でも開催していただけないものだろうか?たとえば星新一展を開いてくれた世田谷文学館とか。
世田谷文学館さん、どうかひとつお願いします。

uncle-jamがお世話になっている藤沢さんのホームグラウンドの三崎まぐろラーメンが、B級ご当地グルメ日本一を決めるB-1グランプリで善戦、なんと5位入賞を果たした。なんだか他人事とは思えなくてうれしい。
今日からuncle-jamはまた三崎にお世話になりに行く。10月3日のライブのための短期集中合宿に入るのである。かもめ児童合唱団、そしてまぐろラーメンの三崎は、uncle-jamの第2の故郷と化している。

「サンデー銀次」から、ファンや読者のみなさんとやりとりができるようになった。みなさんからのコメントやメッセージが1日に何千何万にならないかぎり、とりあえずお返事を書いていこうと思っている。
imi70さんから、「涙の理由を」のレコーディングのときの、大村憲司さんとのエピソードをというコメントをいただいた。

「涙の理由を」はJ.D.サウザーの「You're Only Lonely」を意識したわけではない。もともと、60s特有の「ツンタタ、ツンタ、ツンタタ、ツンタ」のリズムを、新しい解釈でできないかと思いついたのがきっかけである。
Love Parade制作のとき40歳を過ぎていたので、大人っぽい曲にトライしてみようと思った。曲先だったので詞はまだなかった。M-1とかだとイメージが沸かないので僕は仮タイトルをつける。「涙の理由を」は最初「涙のツンタタ」というタイトルだった。この仮タイトルの背後にあるユーモアを、いちはやく理解してくれたのが大村憲司さんだった。

大村さんは自身にも他者にもサムライのような厳しさを持った人だった。会うまではこわい人だという噂ばかりが耳に入ってきていた。アルバムLove Parade制作にあたって、シンガーソングライターの原点に立ち返るために、サウンド・プロデュースをいろんな人に任せてみようということになり、「涙の理由を」は同じギタリストの大村さんにお願いした。

1970年、福岡風太が主宰するBE-IN LOVE-ROCKというイベントで初めて見た、カウント・ジャズ・ロック・バンドのギタリスト、大村さんには息をのんだ。テクニックもさることながら、次から次に出てくるアドリブのフレーズのセンスのよさ、フィーリング、音色がまるで日本人ではなかったからだ。生まれて初めて、本当にすごいと思った日本人ギタリストだった。

スタジオでの作業中も、僕はいつも心のどこかに緊張感を潜ませていた。
リズム録りが終わり、要所要所に僕のギターのショート・フレーズをダビングすることになった。「愛しあったあの日々が幻でも」のあとに入ってくるフレーズのことだ。
大村さんはクラプトン、僕はジョージ・ハリソンのようだと勝手にイメージしていた僕は、試しに「My Sweet Lord」みたいなフレーズはどうでしょうと提案し弾いてみた。驚いたことに大村さんはやんやと喜んでくれた。次の箇所はそれをちょっとヒネったフレーズにしたところ、さらに大村さんに受けた。
信じられなかった。こんなにユーモラスで、無邪気に音楽を楽しむ側面をもっている人だったとは ... 。一瞬にして緊張が解け、スタジオの空気が高校生バンドの部室のように和らいだ。

終始楽しい雰囲気でレコーディングが進んだのは、大村さんが僕からのリスペクトを受けとってくれたこともあるが、同じ時代を通り抜けてきた二人のギタリストが、一山二山越えたあとに会えたからだと思う。
その後も意気投合、大村さんが亡くなるまで二人でユニット活動もしていた。接すれば接するほど、ユーモアとウイットに満ちた、インテリジェンスにあふれる人だと知るばかりの日々だった。
ときどきあんなに素晴らしいギタリストが世を去って、僕なんかが永らえているのはどういうことなんだろうとふと思うことがある。答えはみつからないけれど、そんなことを思うたびに、もっと生きて僕なりに、大村さんのぶんまでがんばらねばとも思う。
今でも僕の心の中で大村憲司は輝き続けているのだから。