(長文です)
にわか知識だが、記念日反応なるものがあると知っていたので、前々から自分にひまつぶしを用意していた。
記念日反応とは、死別を体験した者が、記念日前後に心身に不調を起こすことらしい。
なにしろ、分刻みの、怒涛のように多忙な日々を送っていたところから一転して、仕事をして自分を食べさせるだけの毎日は、時間が余って仕方がない。
その上、生活を変えるのは良くないと思い、できるだけ普段通りにしていることと、コロナの状況が相まって、行くところもあまりなかった。
さて、下手ながら、フラワーアレンジメントをいくつか作って、彼にささげようと思っていた。
そうすれば、例の日は時間をつぶせるだろう。
花屋まで4、50分歩いて行って見て回っているうちに、早くも練習が始まった。
できるだけ思い通りの花を作りたかったのだ。
それなりに、結構気が紛れた。
だが、記念日反応とやらは、想像を超えた、大変なものだった。
空気が無重力の反対になっているかのように、体が重く、動きが鈍く、頭が働かない。
だが、そう思うだけで、例えばキッチンへ行こうと思うとあっという間に着くし、
花もすぐにできてしまった。
時計が一向に進まない。
何もかもがだるくて仕方がない。
それなのに、一、二を争う最悪なことが、容赦なく、鮮明に、脳裏に蘇る。
そして、3月末の主治医との会話がフラッシュバックした。
やはり、あの時だ。あの時、言えばよかったのだ。
「もう連れて帰ります!」
声に出していた。
おかげで寝ることもままならない。
寝ていないと、体力をより消耗し、頭に浮かぶネガティブなことを、はねのけることもできない。
思考がうまく働かない。
まるで、罰を受けているかのようだった。
まあ、自責の念があるので、もしかすると罰せられたいのかもしれないが。
その上、「あの日」と「あの日」が続いていたので、
(あの日と呼ぶのは、ハリーポッター風に言うところの、「名前を出すのも恐ろしいあの日」だからだ。)
国内からも電話やメールをいただく上、アメリカからも「こちらではもうあの日になりましたが」とか、「まだこちらではあの日ですが」などの連絡をもらい、時差がある東海岸と西海岸からもいただいたので、
私の初めての、「あの日」と「あの日」は、4日間に及んだ。
なんとか、やり過ごしたと思うが、寝つきの悪さは残ってしまった。
恐るべし、記念日反応。
これでは、これから先が思いやられるが、流れに身を任すしかない。
「あの日」には思考停止で思いつかなかったが、
せめてもの気休めは、こんな日を過ごすのが、大切な夫ではなく、私であること。
こんな日を過ごさせるのは、かわいそう過ぎる。彼の笑顔が曇ってしまう。
私でよかったよ。これが夫を愛したことへの対価なら、これからも受けよう。
親しい人たちからの連絡は、嬉しいものだった。支えられていることを実感した。
これも彼が残してくれた人々との大切な繋がり。
一人だけれども、一人ぼっちではないのかなと思えた。
ありがたいことである。
まだまだ日が浅くて、実感がないし、実感を得たくないのが本音だが、
実際の苦難は、きっとこれからなのだろう。
彼がICUに搬入されてからの、あの半身をもがれるような耐え難い痛み・・・
私はまだ、あれしか、知らないのだろうな。
いいよ、どんな苦しみでも来たらいい。
こんなことは、彼か私のどちらかにしか、起きないのだから、
私が引き受ける。
人工肛門、代わってあげられなかったのだから、
これは私の仕事。