と、なんか偉そうに書いてしまったが、
私は、小学1年生の時に、確か、二子玉川の高島屋のおもちゃ売り場で、変身サイボーグ1号が欲しいと言って、床に引っくり返って泣いていたことがある。
この時の私は、決定権を誤解していたのだろうか。
決定権は母親にあると思いつつも、駄目もとで、引っくり返っていた感がある。
結局、この時は、買ってもらえなかった。
誰が決定権を持っているかということを伝えてもらったわけではないけれど、「こりゃだめだ」というのはわかった。
その時は、けちくせえと思ったけれど、母親の毅然とした態度には、今となっては感謝である。
そう言えば、大学生の時も、スキーに行きたいって言ったのに、なぜか、その時は金を出してくれなかった。
しかし、そうかと思えば、高校生の時は、ステレオを買ってくれた時もあった。
よくよく考えると、迷わされる部分はあったのかもしれない。
なんてことを書いていたら、前の保育園で5歳児クラスを担任していた時の保育参観のことを思い出した。
保育参観は午前中なので、午後仕事がある親は、参観後、子どもを預けていくし、一日休みを取っている親は一緒に帰る。
一緒に帰る子がいることもあり、年齢にもよるが、保育園に残る子はだいたい泣く。
もちろん、子どもの悲しい気持ちは受けとめ、抱っこしたりするけれど、保育士にはどうしようもできないことだし、それぞれの家庭の事情なので、もうしょうがない。
子どもも、子どもなりに、「うちはそういう家なんだ」と思って、最初は泣くが、気持ちを切り替えられる。
その子は、おばあちゃんだけが参観に来ていた。
そして、おばあちゃんは、その子を預けていくと言った。
しかし、その子は一緒に帰りたいと言って泣いた。
たぶん、仕事はなかったのか、結局、根負けしたおばあちゃんは、その子を連れて帰った。
だったら、最初から一緒に帰ることにしていた方が、お互いどんなに気持ちよく帰れただろうと思う。
こうなることを予測するのも大切だと思う。
そして、もう一点。
泣けば通るということをこの子は学習してしまったのではないか。
このおばあちゃんは、すごくいい人なんだけれど、孫にとって、このことはどうだったのかって思いはある。