このブログを立ち上げた理由の

大きな柱のひとつが

「死」や「自死」、

「目には見えない世界」等について考察をしたかったからなのだが。

 

 

いざ書こうと想うと

 

どんな人を対象として

どんなスケール(規模)で

どんなレベルで

どこから書くのがよいのか等

 

考えると筆が進まず…

 

 

ひとまず私自身の

死に対する感覚から触れてみようかと想う。

 

 

 

(鞍馬寺にて)

 

 

 

 

私は幼い頃から

「死ぬこと」に対する恐れがなく

 

死は私にとってずっと、いつも身近に在るものだった。

 

 

それは既に小学生の頃には感じていたことで

 

いつも死は

私の隣にいる影のような、ごく自然な当たり前なものであり

決して怖いもの、恐れるべきものだとは感じていなかった。

 

 

 

 

小学2年生の時に

祖父を自宅で看送ったのが

一番最初の身近な死の体験だった。

 

ご臨終ですと宣告されて、

姉とふたり洗面所に行き

おじいちゃんが死んじゃったと泣いていたら(別に悲しくはなかったけど。)

 

 

部屋の天井の角あたりから

「典子や、典子や…」と私を呼ぶおじいちゃんの声が聞こえて

 

姉におじいちゃんが呼んでるよと言うと…

姉は聞こえないとの返事で。

 

 

 

 

もしかしたらその時に

 

なんだ、おじいちゃん死んでないじゃん。

肉体から離れただけで生きてるんだ〜と知ったのかもしれない。

 

 

その時

おじいちゃんは私に何か伝えたいことがあるのかな?と思ったのだけれど…

 

結局その時にはわからないままに

月日は流れて行ったんだ。

 

 

 

 

 

また、私は中学生の頃には

自分の寿命は40歳までだ、と、

なぜか想っていた。

 

だから40歳になったとき、

ああ私はまだしたいことを終えていないから、まだ生きるんだな〜と想った。笑

 

それも不思議でもなんでもなく

ただ、ああそうなんだなって想っただけ。

 

 

 

 

だから、身近な人が亡くなっても

ただ遠くに行ってしまい

会うことができなくなったくらいの印象で

 

会えなくなることは

もちろんとても悲しいし寂しいけれど…

 

それもまた時と共に移ろいゆく

人生の一ページを彩る出来事なのだと想っていたので

 

わざわざお葬式に行かなくても

私のいる場所からでも

どこにいても

気持ちは届くと想っていたので

 

基本的には仕事関係でない限り、

お葬式には参列しない人間だった。

 

 

今考えてみると、友人知人関係のお葬式にも参列せず

残されたご家族には寂しい想いをさせてしまったかも知れないなぁと想う。

 

 

 

 

そのように

若い頃から私は少し風変わりな人間だったのかも知れないなと

今これを書いていて想った。

 

 

 

ちなみに私は

世間で言うところの霊能力者ではありません。笑

 

きっと誰もが人生の中で

幾つか不思議な体験をしていると想う。

ただ、忘れてしまっているだけで。

 

 

 

なんたって本当は

全人類ひとりひとりが

全能の能力者なので。笑

 

 

 

 

 

しかし、

 

イノチを軽く観ているの訳ではありません。

 

 

私はイノチの貴さを痛いほど感じ

 

大切に想い

 

大切に生きています。

 

 

 

 

とゆうところで、今日はひとまず

この辺で一旦筆を置きまするる。