【風格とは、捨てても捨てても遺るもの】
奈良県立大学客員教授、岡本彰夫(あきお)氏の心に響く言葉より。
風格とはいったい何であろうか。
『新選国語辞典』(小学館)によると
「1.ふうさいと品格。ひとがら。2.おもむき。味わ い」とある。
しかしどうも品格と風格は異なるものではないかと思う。
もちろん風格は品格を包含する、えも言われぬ有り様というか、醸し出される雰囲気というか、表現しがたい状態だ。
東大寺の長老で書画にも名高い清水公照(こうしょう)師は、
しばしば焼き物で仏や人物を作られて、
これを「泥仏(でいぶつ)」と呼んでおられた。
常識や思い込みを超越した、脱俗の泥仏は飄飄(ひょうひょう)としていて今も人気がある。
師の百の流儀をまとめた「泥仏放語集」に
「ぼけにも風格」と書かれたものを見たことがある。
これを見た時、えも言われぬ感慨を覚えた。
人がたどって来た人生の果てに生ずるのが風格であって、
その有り様はどれ一つとして同じものはなく、個々区々(まちまち)なのである。
つまりその人の人生の香りというか、結果の立ち姿である。
人生の舟に、知識や経験や想いを積めるだけ積んで川を下っていく。
しかし全てを持っては死ねないから、ある年齢に達した時は、これを捨てて行かねばならない。
昨今はやりの断捨離だ。
しかしいくら捨てて行っても、本当の事は遺(のこ)る。
真実は遺る。
残り香(が)のように。
その残り香が美しいのである。
若い頃、献茶の担当をしていた。
神前への家元の御献茶が済んで、
何席かある茶席廻りの時に、家元の内弟子のご老人のお供をした。
ご流派では名のある先生だから、その先生が席に入られるやいなや、席は静まり凛とした空気が漂った。
ところがその先生は、わざと寛(くつろ)がれ、お話も楽しいし、作法もサラリとこなされる。
茶杓の拝見などは、しっかりと要点を押さえつつも、型にとらわれる事もなく、自然で美しいものだった。
捨てた姿は美しい。
但しそれは修めて修めて、修め尽くした人が捨てた姿が美しいのであって、
修めもせず、舟の荷物も少ない人が捨て去った後には、全く何も遣っていないのである。
中途半端に修めた人と、修め尽くした人とでは全く仕上がりが違うのである。
たどって来た先にあるもの、
全てを呑みこんでから吐き出した後に遺るもの。
つまり人生の残り香と余韻こそが風格というものではなかろうか。
《 風格とは、捨てても捨てても遺るもの 》
『日本人よ、かくあれ』ウェッジ
…
「別れたあとに、また会いたいと思うような余韻や余情を残す人は
魅力的な人間である」(行徳哲男)
余韻とは、鐘の音などが消えたあとも、なお耳に残る響きのこと。
その一番中心にあるものが、なんともいえない温かでしみじみとした人間関係。
なんともいえぬ残り香と余韻のある人…
人間としての「風格」を少しでも身につけたい。
以上、「人の心に灯をともす」のfacebookより転載(一部割愛)させて頂きました。
今日は夕方に
もう一つblogを
アップしま〜す♪