● ゲバラの「二つ、三つのベトナムを!」の、通称「ゲバラ・アッピール」は、日本と世界の新左翼運動に稲妻を伴った雷鳴が轟く如く、確実に届き、戦後世代の若きコミュニスト達を奮起させた。
僕らの戦後、新左翼世代は、確実にフィデルやゲバラに「同時代を確実に共に生きている」こと、いわば毛沢東のような親父世代ではなく、より近しい兄貴分である、革命家達が、国境を越えて存在居る」という限りない充足感、連帯感を与えてくれた。
この年、1965年は、復活した日本帝国主義が、戦後初めて、朝鮮半島・アジアに向けて、侵出・侵略を開始すべく、「韓国」朴政権と手を結び、日韓政治条約を結んだ年である。
24歳の僕は関西ブント・学対部として、東京に出て、関西ブントの往年の願いであったブント再建と全学連の再建に取り組んでゆく。
関西ブントからは、佐藤、浦野、渥美氏、ブント統一派の東京からは松本礼二、千葉正健、黒岩、仏(さらぎ)氏らのブント統一派の両派でもって、統一ブントが、64年、結成された。学生の方では、関西から塩見・八木、東京からは中井、高橋、斉藤らが統一ブント学対を構成し、1965年の日韓闘争を闘った。
僕は、この日韓闘争の総括論文を関西ブント提起の≪第3期論≫の線で、「プレ・ファシズム」論という論文を書き、反帝国主義・国際主義・世界革命を強調します。又、「プレ・ファシズム」時代を闘い抜ける、「反帝国主義」を掲げる全学連再建の必要性を説いた。しかし、世界革命の路線、綱領を書き上げるには、僕のインスピレーションを書きたてる何がしかの先だちの示唆・出会いを必要とする、もういくばくの歳月が必要でした。
この「統一ブント」を主軸にして、マル戦、ML、社青同解放派、第4インターらは、その年、その年、65年の暮れ、全学連の再建を目指して、その橋頭堡として都学連を再建した。都学連委員長は解放派の山本浩司氏であった。
そして、その翌年、66年秋、この統一ブントとマル戦ブントが合流し、(第二次)ブントが再建され、これを機軸・一体にして、全学連(三派)が再建される。この時に、初めて中核派が、この再建運動に加わってくるわけです。
そして、三派全学連は日米両帝国主義の共同侵略・反革命であるベトナム侵略戦争を真っ向から闘い、これを阻止する闘争方向を確立してゆきます。そして、67年、二つの羽田闘争、10・8、11・12闘争が貫徹されてゆく。
これから、70年中期位まで、――実質は、「同志殺し」と銃撃戦としてあった、連合赤軍事件まで――60年安保闘争を第1次とすれば、第2次安保闘争(というより≪大会戦≫と言った方が良い)が展開されてゆきます。
国際的に見れば、“59年、キュ―バ革命の成立、アメリカに於ける反ベトナム侵略の反戦闘争、黒人解放闘争、フランスのカルチェ・ラタンら学生運動・ドイツの新左翼運動、チェコに於けるドプチェックらの反ソ連闘争ら旧スタ―リン主義とは性質の違う、世代的にも、戦後世代が担う新左翼運動が爆発していっています。
※「新左翼運動」という用語を使いましたが。この語義は、決して第4インターらトロッキスト運動だけを意味せず、同時に旧来のトロッキズム運動おも止揚してゆく、戦後世代の感性、認識に基づく、スターリン主義を超克してゆくような内実を持った、創造的で、多様性を持つ、広義の意味での、その意味で“新”の語義での<新左翼>運動と理解してください。
スターリン主義陣営でも、中ソ論争が顕在化してゆく中で、≪第三世界≫でも、<反帝国主義・反植民地主義・反封建主義>の闘いをめぐってヘゲモニー争いを伴いつつも、全世界的に、反帝国主義・反植民地主義・反封建主義の全世界的な怒涛のような進撃が爆発してゆきます。
この中心にキュ―バ革命の実績の下で、世界革命を呼びかける、フィデル・カストロとチェ・ゲバラらの世界革命運動潮流があり、他方のもう一つの機軸に、64年、毛沢東が発動した、文化大革命があったといえます。中国プロレタリア文化大革命は、それから、10年近く、維持・継続されてゆく。
毛沢東はスターリン主義ながら、中国独自の思想的質を持って、ベトナムとそれを支援する全世界の反ベトナム侵略・反反革命戦争運動を支持・支援します。又、ソ連に対して、その修正主義を<社会帝国主義>と規定し、<打倒>を呼びかけてゆきます。或いは、中国・中国共産党内部のソ連スターリン主義・修正主義に汚染されていた劉小奇・小平路線を批判し、<継続革命>を主張する。この革命思想・路線の言い分は、「国際共産主義運動における総路線をめぐる論戦」と題して、一冊の本として編まれ、全世界に頒布されてゆく。
毛沢東は<世界革命>綱領を持たないスターリン主義肯定・「一国社会主義」論の枠内にありつつも、実体験に基づく、ロシア・マルクス主義とは違う植民地・半植民地での「新民主主義革命」・「継続革命」を主張していた。
しかし、彼の革命論は、本質的に、「一国社会主義」論であり、世界革命論・世界革命戦略を持っていず、「過渡期社会」論は目茶目茶で、「過渡期世界」論は未確立であり、スターリンを「7分はマルクス主義、後の3分は形而上学」という、スターリンを支持する、非マルクス主義であり、それ故に、彼の死以降、小平の唯生産力主義、文化大革命の清算、「晩年の毛沢東老耄化」の決議を許してしまうこととなる。
このような時代、チェ・ゲバラはあの有名な「二つ、三つのベトナムを!」というメッセージを、多分アフリカの地から、66年頃発したわけです。
僕は、このような時代、世界を唯物史観に照らして一元的に捉えてゆく論文を、ゲバラ・カストロ路線に連帯するものとして「世界革命の第三の道」と命名し、を書き上げ、それを更に総合的に論じた、通称「過渡期世界(論)―3ブロック同時革命」路線(綱領)と言われるようになって行く論文をブント第7大会綱領草案として書き上げて行きます。ブント政治局で最年少の26歳の時でした。
このゲバラ・カストロのメッセージが、僕に、このような論文執筆を促して行ったわけです。
そして、”68年8月3日、日本の「世界革命の第3の道、諸派」は、ブラック・パンサー党ら「世界革命の第3の道」諸派と日本で革命的政治集会を勝ち取ってゆく。
このメッセージの前に、”65年、ゲバラのフィデル・カストロ宛の「別れの手紙」は発せられていたのである。
●以下は、朝日新聞・平山の連載中の14で紹介された 「別れの手紙」の抜粋である。この手紙の内容は65年10月、キューバ共産党中央委員会の席上、フィデルによって読み上げられた。
以下、紹介する。
・ 「キュ―バ」での市民権や公職の全てを捨てる。
・ 世界の他の地で、僕のささやかな努力を必要としている。
・ 君には重い責任があるから出来ないが、僕にはできる。別れの時が来た。
・ 妻子については「暮らしや教育については必要なものは国が提供してくれることを知っている。
・ そして、ゲバラはコンゴに渡った、がこの事実は公表されなかったそれゆえ、ゲバラの消息をめぐり、「カストロがゲバラを粛清した」なる噂が飛びかった。
・ カストロは上記の如く、65年10月、キューバ共産党中央委員会で、この手紙を読み上げた。
・ 平山によれば、ゲバラの娘アレイダ・ゲバラは「父がいない理由を国民に説明するには、手紙を読むしかなかったのだろう」と推測する。
・ アレイダは成人後、別の手紙を見つけた。
フィデルがコンゴにいるゲバラに宛てたものである。「キューバに戻って来て欲しい」と懇願するものであった。これを、読んだゲバラは66年に一時帰国したが、知っていたのは限られた者だけであった。
・ アレイダは(カストロに)会った際、父に手紙を送ったことを何故明かさなかったのかと尋ねた。カストロにとって不名誉な噂を否定できたのに、と思った。
カストロは苦笑した。「CIAの言いたいように言わせておけばいい」噂の出所は、カストロ政権の打倒を狙うCIAだというのだった。
ゲバラのことを語るカストロは、過去形を使わなかった。「パパが生きているみたい。」とアレイダは笑った。カストロは真面目な顔で「だってチェは生きているんだ」と言った。アレイダは二人の友情の深さを感じた。
●それは、そうであろう。チェとフィデルは、南米ボリビヤの地において、「第二、第三のベトナム」を創出すべく、準備をやっており、ゲバラはこの地で、決起し、ゲリラ戦争を闘い、67年射殺され、殉死するのであった。奇しくも、この年は、秋、10・8、11・12闘争が爆発・貫徹された年である。




