つい先ほど、姉から電話があり、兄が死亡したということだ。
姉は兄の住居等、身辺を綺麗にしてから東京に戻っていたらしいが、先ほど病院から、
『兄が死亡した』という電話があったそうだ。
『兄が死亡した』という電話があったそうだ。
戻って来たばかりでまた沖縄に行く、と言うので、俺は姉をねぎらって、沖縄に行ったら、兄の姿を教えてほしいと伝えた。
姉は『良い顔していたから大丈夫だと思うよ』と言っていたが。
我々家族は、僕は創価学会を脱会したが、皆、日蓮大聖人の仏法を信仰しており、兄が成仏してくれたかどうか確認したいのだ。
実はここ1、2日で、兄が死亡する、と言うことは、姉から電話が来る前から僕には知らせというか、兆候と思われることがあって、僕はなんとなく事前に感じていた。
医師が家族を呼ぶほど危篤だから、近々死亡することは想像できるが、兄が倒れて危篤状態になってからけっこう日が経っており、家族が呼ばれても、目を開けたりしていたから、いつ兄が死亡するか実際は全然分からなかった。
だから、「兄が倒れて重篤」と姉から電話があって以来、僕は兄に題目を送っていた。
:南無妙法蓮華経を兄を思って唱えること:
:南無妙法蓮華経を兄を思って唱えること:
そして姉が医師に危ないと呼ばれてからは、なるべく多く兄に題目を送っていた。
ところが、昨日の晩から今日にかけて、どうしても題目が唱えられなくなってしまったのだ。
唱えると頭が重くなったり、気分がすぐれなくなったりして、兄へ題目を唱えることが困難になってしまったのだ。
「おかしいな~、どうして題目が上がらなくなってしまったんだろう?。」
:題目を唱えるのを“題目をあげる”と言う:
:題目を唱えるのを“題目をあげる”と言う:
急に兄への題目が上がらなくなってしまってので、「兄に何かあったのではないか?」と感じて、
「もしかしたら、もう兄へ題目を上げる必要はない、と言うことなのかもしれない。」と、そんなことを考えていつもの散歩から帰ってきたら、つい先ほど、姉から、兄が死んだようだ、という電話があったのだ。
だから、兄が死亡したのは、たぶん時間的に、丁度、僕が散歩に行っていた時だと言うことになる。
雨以外は毎日する散歩は、2、3コースがあって、今日はどうしてもあまり行かない、隣町の綺麗な夜景が見える貯水池に行こうと決めてそこへ行ってきた。
その貯水池は耐震のために綺麗で広い橋に造り変える工事が今年終わって、昼は橋から見える綺麗な貯水池と広々とした景色が見事で多くの市民が毎日散歩している。
しかし夜は、橋は綺麗なライトに照らされてはいるが、橋を散歩する人はたまにしかいなくなる寂しい場所になる。
だから、綺麗なんだけど、冬は高台で夜風が冷たいこともあり、あまり行かないコースになっている。
だけど今日はどうしても貯水池に行きたくて行った。
案の定、橋を通る人は数えるほどしかいなくて、風も冷たかったが、橋に上から、昼間は絵画のように美しいが、夜は寂しく暗い貯水に向かって、手を合わせ、兄のことを心から祈った。
だけど、その橋の左の暗い貯水池よりは、橋の反対側の右から見える隣町の綺麗な夜景と広大な夜空に向かって祈った方が良いな、と思い、場所を移して、兄を思って祈った。
『兄が成仏できますように』『兄をお守りください』と。
これまでは題目を唱えながら、そう祈っていたが、題目が上がらないため、綺麗な夜景と夜空に向かって手を合わせて、祈った。
兄は、丁度その時、死亡したのだ。
だからほんとうに良かったと思っている。
こんなことを書くと変に思うかも知れないが、今はすっきりとした気持ち、と言うか、悲しい気分ではない。
会うことはできなかったが、最後は良い形で兄をおくることができて、ほんとに良かったと思っている☆
そういえば兄の誕生日は7月8日。死亡した日は3月8日。偶然なのかな?
8とは仏法では8葉の蓮華の華を意味し、蓮華が開くのを比喩として『開く』、という意味がある。
開くとは、表面の意味は心を開く。深い意味は仏性を開く。ということを意味する☆