南京大虐殺犠牲者数 | リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

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南京大学歴史学部の張憲文教授
私個人としては、30万というこの数字は推定数だと思っています。武器を手放した中国兵、南京市民、よその土地から南京に逃れてきた難民などです。当時、戸籍制度はまったく完備されていませんでしたから、よその土地から多くの貧民が南京に来て、郊外の貧民区に住んでいたとしても、戸籍に編入されることはまったくなく、そのたため、こうした人たちが虐殺されたことについては、それを正確に統計できるいかなる文字資料も残っていないのです。十分な証拠を探し出す前に、こうした前人の推定数を安易に否定することはできない、と私は考えています。この数字が、当時の大虐殺を知るすべての人の共通の認識だからなのです。

2003年12月13日の北京日報の記事より

師範大学の南京大虐殺研究センターの張連紅教授は《北京日報》の記事
張連紅の論文は指摘する、1927年国民政府が南京に都を定めた後に、かつて南京市の地域の範囲は大きな変化が発生した。最初は、南京の地域の範囲はほぼ南京城区(明時代の城壁を界とした)を主とするだけであった。1935年3月、南京市の管轄地区はとても拡大され、もとは江寧県に属していた孝陵衛、燕子磯、上新河の3つの郷区の併せて21の郷鎮を南京市の管轄に入れた。南京を都に定めた後に、都市の人口の増長速度はとても速く、1937年6月には、南京市はすでに101.5万人を上回った。
  “八•一三事変”勃発後、南京は直接戦争の脅威にさらされた。安全を求めて、南京市民の一部は西へ、一部は長江以北へ船で渡り、自主的に地方に移り一部の城区市民も郊外の郷区へ避難した。5つの城区、2つの郷区の統計結果によれば、1937年8月から11月までの、城区の人口が流出する確立は48.9%で、郷区は17.6%である。1937年8月の人口統計をとるため流動人口の統計を含めた、これは1936年の統計を基数とした。1936年7月、南京の7つの城区の居住人口は741,667人と算出し、4つの郷区の居住人口は203,877人と算出することが出来る、1937年11月初め、南京城区と郷区の居住人口中で少なくともまだ54.7余万人は移っていない。この事実は日本の特務機関の報告で実証されており、その情報は10月下旬に南京にはまだ53万余人がいると言っている。
  上海陥落後、南京は第二次流出が始まった。第二次流出人員は主要な公務員が主である。全市の交通機関は国民政府が統制した、600台の自動車と220余隻の木造船を含んで、軍事と国民政府は西へ移った。輸送船が少ないために、乗船切符の価格は高騰し、実際に乗船切符を買って南京を離れることが出来る市民・農民の数は少なかった。11月中旬、かつて軍事委員会の後方勤務部は各関係機関を招集して会議を行い送還する難民問題について討論した、そして南京市政府の“送還するルートと人数と地区の手紙を後方勤務部へ即日提出する”ことになり、これに協力した。11月23日、南京市政府は手紙に書いている:“当市の調べでは人口は約50余万である。”この説明は11月初旬から11月下旬まで、決して南京市の居住人口は大きく変化しない。
   11月27日、米国大使館は国内の報告に南京市長の話では、まだ南京には30万~40万の市民が残っていると返信に書いており、南京市長は南京城区の人口だと決して明示した報告をしていない、しかし11月23日に南京市政府の公文書には南京の人口は50余万と書いており、4日間だけで突然南京の人口が10万~20万人流出し、その時の南京の運送能力(圧倒的多数の船舶がすでに政府の西に移っている)で遂行するなど不可能である。そのため南京市長が南京には、まだ30万~40万人が居ると語ったのは、南京城区の人口数だと見なすことができる。
12月初旬に南京防衛軍司令官の唐生智は下関から浦口までの連絡船の取消し命令を下して、同時に南京の各城門も閉鎖した。その為あまり大きな人口数字の変化はありえない。

“八•一三事変”以降より、“まちまちであるが毎日、千数百人ほどの各地の難民が次々と南京にやって来た”これらの避難して来た南京の難民は、南京駅で乗り換えて内陸部へ向かう者もいた。南京の運送能力の制限を受けるため、日本軍が南京を占領前の夜まで、殆どの難民は南京に滞在するしかなかった。外地から南京に滞在していた難民の人数は現在まだ正確な統計はないが、しかしもし最低の数字の毎日1,000人で計算するならば(事実上上海陥落後は、蘇州から南京の京滬線【北京-上海線】に沿って避難する人の流れは上海陥落前をはるかにを上回っている)、上海陥落から日本軍が南京を占領する間に、少なくとも3万人以上の外地からの難民が南京城区に滞留していた。