火星の上の床屋さん -6ページ目

火星の上の床屋さん

鞄に夢を詰めて、向かうは明日へ

「アフリカの夜」




飛行機が不時着して3日目の夜になる。
飛行中に無線が途絶えてから、機体ははるかに航路を逸れてしまった。
救援隊は私を見つけることはできないだろう。
足が折れている。その場所からの出血もひどい。さらには体中のいたるところに激痛を感じる。もう私の命は明日の太陽の責苦に耐えられそうにない。
泣きたくなるが、もう涙のための水分だって私の中には残されていない。
喉の奥が乾いて張りつき、呼吸を困難にさせる。
岩肌の表面にかすかににじみ出た水滴をなめた。
ごく微量の水分を口の中で唾液と一緒にして飲み込む。
3日間、這いずり回るように歩いたが水溜りひとつ、サボテンひとつ見つけられなかった。
見つけたのは遠い昔に枯れた背の低い木一本だけだ。
無味乾燥とした景色。黄色い土と墓標のように点在する岩石。生命らしきものはほとんど見当たらない。
なんて運の悪いところに堕ちてしまったのだと思う。
もう私は死を覚悟するしかなかった。明日の灼熱の太陽の下で、体中がぼろぼろに乾いて意識がなくなっていくのを待つしかなかった。
私はこの上ない孤独を感じた。
砂漠の冷たい風が吹いた。薄気味悪く響く風の音は、私の空虚な気持ちを容赦なく責めたてていた。
しかし、この辺境の地といえども、私の慰めになるものがたった一つだけ存在した。
空を埋め尽くすほどの星たちの輝き。
なんと星たちとの距離が近いことか。視界いっぱいに広がるこの景色を眺めていると、星たちの空間に迷い込んだような気持ちになる。今までにこんな星空を見上げたことがあっただろうか。こんなにも手の届くように星を感じられたことがあっただろうか。
明日の夜までには生きていることができない私にとってはこの夜空が最期の眺めになるだろう。あとどれぐらいで太陽が上がるのだろうか。私の中に人間的な情緒が残されているのもきっとそれまでだろう。そしてそのあとにはすぐ死がやってくる。
なんとも悲しい現実だが、人生最期にこの星空に出会えたことが救いだ。不思議と、死に対する恐怖も癒されるような気がする。
星たちの輝きに私はふわふわとした浮遊感を感じながら人生最期の余興を楽しんだ。
できることなら、この浮遊感のまま私の意識は完全に薄れて消えてしまいたい。
しかし、それは叶わなかった。突然訪れたある気配によって、私は現実に呼び戻された。
何者かの気配がする。
私はその気配のするほうへと顔を向けた。しかし次の瞬間あまりの光景に私は度肝を抜いた。
ライオンが私の眼前にまで近づいてきているところなのだ。
「ひっ!」
私は一瞬にして凍りついた。恐怖の本能が全身の毛を逆立たせた。
ライオンはゆっくりと一歩一歩近づいてきた。
私は突然の出来事に驚きと恐怖とでぶざまにたじろぐしかなかった。
ライオンは私の場所までたどりつくと、立ち止まって私を見下ろした。
その動きは傷ついた草食動物を前にするような余裕の溢れる、ゆったりとしたものだった。
私はそのとおり草食動物のように恐怖で震えた。歯がガチガチ鳴り、胃が激しく痙攣した。
ライオンはそんな私を見下ろしたまま、足元から頭まで丁寧に観察していた。どこから食べようか物色しているのだ。
どのぐらいの間、ライオンは観察していたかわからないが、私はその間ずっといつ食いつかれるかと気が気でなかった。
そしていよいよライオンが私の体へと顔を近づけたとき、私は何もできずに顔をくしゃくしゃにして目を閉じるだけだった。
真っ暗な視界の中で、体が引き裂かれる痛みが襲ってくるのを覚悟した。
しかし、いくら待てども、その衝撃はやってくることはなかった。
私の心臓の鼓動と荒い呼吸以外は、なぜだか異様なほど静かだった。
時間をかけて私はゆっくりと目を開けた。するとライオンは静かに私の顔を見ている。
月の光が銀色の地面の上に私たちの影を投じていた。
私はいつまで経っても襲ってこないライオンに対して不思議な感覚がした。
夜空の光が描き出すライオンの姿はぼんやりとしか映さない。
しかしかすかな光の中ではっきりと浮かび上がる二つの瞳を覗き、その中に言いしれないほどの物悲しさを見たときにこのライオンがいかなるライオンであるということがわかったのだ。
その瞳だけではない、老年を感じさせる黒ずんだ口元や足先、この辺境な地に単独でいること。
このライオンは死を間近に迎えたために群れを離れ、自分の死に場所へと赴くための道中にいるところなのだ。
きっと長いこと歩き続けているのだろう、体は大きいがだいぶ痩せ細っている。
ライオンは依然として私を見ていた。水のように美しく夜空の輝きを表面に反射させているが、その奥のほうには悲哀が沈んでいる。
月を背にしているライオンの姿は砂漠に建てられた彫刻のようにも見えた。そしてたてがみの毛の先のほうは白銀色そのままに光り輝いているようだった。それほどに夜空と私たちは近い距離にあったのだ。
どれぐらいの時間が経っただろうか。
ふとライオンは私に背を向けるとそのまま歩いてどこかに行ってしまった。
そしてもう2度と私のところへ戻ってくることはなかった。
月のほうへと向って行った。

次の日、私は奇跡的に救援隊によって救出された。
帰りの飛行機の中で、仲間たちにライオンのことを尋ねたが、誰もこんな土地にライオンを見たものはいなかった。
あれからかなりの年月が経過した。
今は仕事も退職して、妻とのんびり暮らしている。
子供たちは巣立ち、それぞれの家族を持つようになった。
毎日がとてもゆっくりと平穏に過ぎていく。
時々、星の輝く夜を見ると、あの時の情景が思い出される。
あの美しい星空、砂漠の景色、ライオンのこと。
そして結局はライオンがあのあと一体どこへ向かったのかということが気にかかる。
あの情景を思い出すたびに、同じ疑問が呼び起こる。

そしてあのアフリカの夜の、あのライオンの後ろ姿へと問いかけるのだ。

火星の上の床屋さん-月