火星の上の床屋さん -3ページ目

火星の上の床屋さん

鞄に夢を詰めて、向かうは明日へ

古ぼけたバス停。
狭い道の向こう側には草が生い茂り、しっかりと舗装されていない道の中にまで草の繁殖力が及び、いかにも荒れ果てた殺風景な景色だった。
彼はそんな中、一人でいつ来るともわからないバスを待っていた。
そして彼は失恋という雨に打たれ。
挫折という石につまずき。
不安という寒さに震えていた。
空には先の見えない彼の道を象徴しているかのように低く垂れ込めた雲。
昨日の夜から止まない雨も降り続いている。
辺りは薄暗く、春先の午前中の太陽の姿は雲の向こうでくすぶっていた。
水に濡れた草の香りとしっとりとして少しひんやりとした空気の中だった。
辺りは静かで、風もそんなに吹いてはいなかった。
雲越しにやってくる太陽の光はわずかでも、その光にはわずかばかりの春先の弾力感が感じられた。
穏やかといえば穏やかな、暗くじっとりとしているといえばそのような、なんだか不思議な時間だった。
あたりはまるで虫たちが草の下でひそひそ話ししているような静けさだった。
彼はバス停の屋根の下で手の甲を動き回る一匹のてんとう虫を見つめていた。
さっきからてんとう虫は一生懸命に高いところへと移動しようとするのだが、ある程度まで進むと、彼は腕を曲げてそれまでの高低を逆転させてしまう。するとまた、てんとう虫はUターンして今まできたところへと移動し始める。そしてまたある程度までいくと、彼は悪戯に腕を動かして、何度も何度もてんとう虫に同じところを往復させていた。
そうして彼はその健気でひたむきなてんとう虫の動きを見ながら持て余す暇な時間をつぶしていた。
てんとう虫はしきりに高い場所を模索するように進み続けていた。
彼はそんなてんとう虫を飽きることなくいじめ続けた。
ただそれは、それほど彼の暇を刺激的に埋めてくれるものではなかった。
しかし十分な面白みに欠けるとはいえ、彼には他にやることがなかったし、その日はやけに暇な時間が重たく感じられたので、執拗に彼はそのてんとう虫をこき使った。
しかし、しばらくそんなふうにてんとう虫を暇つぶしに使っていたら、突然てんとう虫は動くのを止めて身動きひとつしなくなってしまった。それまで何ともなく動き回っていたのに急に何の前ぶれも示さずに動かなくなり、もう高さを変えてもぴくりとも動かなくなってしまった。疲れ果てて死んでしまったように指の上で固まっていた。
体力を使い果たして死んでしまうほどまでに、本能に支配されて動き回るなんて虫はなんと単純で哀れな生き物なのだろうと思えた。
彼はとにかく暇を持て余していたので、今度は何か別のことでこの時間を消化しなくてはと考えた。
彼はこれからのことについて考えていた。
彼は年齢こそまだまだ可能性のあるところにある。しかし、何をしようにも、自分が何も持っていないことに不安を持っていた。時間をかけて何かを成そうとすることがもう遅いように感じていた。
それは少しばかりの遅れでしかない、それは決して遅すぎるということのないスタートとしても、その少しばかりの遅れが彼を容赦なく不安に駆り立て、何かの憧れを持つことを否定させるのだ。そして結局一度ばかりの挫折に自分の全てをも否定させてしまっている。
それは一種の甘えのための言い訳にすぎないのかもしれない。
何かをするのに不安を見つめることは、それはつまり何もしないことを肯定しているのにすぎないからではないのだろうか。
何もしないことは決して肯定できるものではない。
それは歳がいくつであろうと関係のないことだ。
そして時として自分が何も染まっていないことは、音楽的な自尊心に浸ることもある。しかしそれは一時の自尊心でしかない。
それは何も残すことはできない。
水で山を作るように、汲んではこぼれていくばかりの空白な時間でしかない。
一度の挫折に浸っている場合ではない。
自分を嘆くのはやめて、新しい何かを見つけなければならない。
自分を嘆くのは、自分を甘やかしていることと変わらない。
彼は何かを持たなければならなかった。
誰かにしっかりと語ることのできる何かを……

しかし彼は自分がこれからどこにいくのか見当もつかなかった。
それは彼自身が決めることではあるのだろうが。
今の自分がまったくのゼロだということ、それが彼をどこにも導こうとしなかった。
勢いよく電信柱にでも突っ込んでこれからなんてものが何もかもなくなってしまえばいい、そんな思いだって叶いそうになかった。

ひとしきり考えたが、彼はこれ以上自分の考えが進展しそうにないので、頭の中で言葉を繰ることをやめた。
雨はまだまだ止みそうもない気配だった。
バスもまだ来ない。
しかし今度はどういうわけか雨粒の音が胸の奥へと響いてくるようだった。

これという暇つぶしを見つけることはなくとも、雨粒の音を聞いているだけで、時間はすんなりと流れていくようだった。雨が降っているということだけで、彼は他に何も必要としなかった。



しばらくは彼は時間を雨が降っているということだけに費やしていた。
すると突然、本当に突然のことだった、今まで死んだように動かなかったてんとう虫が動き始め、指先にまで移動すると、そのまま羽を広げて飛び立っていった。
てんとう虫はふらふらとおぼつかない軌道を描きながら雨の中へと飛んでいき、雨粒とそれほど大きさに差のないてんとう虫の姿は、すぐに視界から消えていった。
それでも彼はてんとう虫が飛んで行ったほうをしばらく眺めていた。
突然の出来事だったので、彼からてんとう虫が飛び立つのをどうすることもできなかった。
その一連の出来事は彼の意表を完全に突いたものだった。
そして何より、原色に近いもの達で構成された景色、そこに小さな紅い点が描いたおぼつかない一筋の軌道、その残像が鮮明にまだ目に残っていた。
しばらくはその残像が焼きついていて、まばたきを何度も繰り返してもなかなか消えることがなかった。
空中に浮かんだその曲線は手に触れられそうなほどはっきりとしていた。
そして時間をかけてだんだんと残像が薄れ、視界は今そこにあるものだけを映すよう、正常さを取り戻していった。
視界が明けるとともに、彼は平常を取り戻していった。そして完全に視界がもとに戻ると、また再び殺風景な景色が目の前に広がっていた。
すると、今までその存在感を消していた雨の音がまたあたりに響き始めた。
それは、ぽっかり空いた彼とてんとう虫との空間に流れ込むように響き渡っているようだった。
雨音は先ほどよりもいくらかその勢いを増しているようだった。

やがてバスが到着した。
彼は窓の向こうの、だんだんと遠くなっていく景色の中で、てんとう虫の軌道の先、その姿を探すように見つめていた。




火星の上の床屋さん-バス停