薄田隼人正(すすきだはやとのしょう)と誉田古戦場跡 | Tetsu龍 罷り通る

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後藤基次と吉村武右衛門の顕彰碑のある丘から、

続いて道明寺方面に向かいます。

 

ここで目の前には、遠く高野かつらぎ山系を水源とする

石川が横たわっています。

橋が有るのは南側と北側。
どちらも結構距離が有る。

北へ行けば道明寺方面から、南へ行けば誉田方面からの突入となります。

ここで、南へ……これが間違いだったのだな。

歩けども歩けども橋まで辿り着かない。

文明の利器のなかった頃の行軍が、

如何に苛酷だったか身をもって体験しております。

そして、現代人が如何に堕落しているかも。

中国大返しどころか、

戦国時代やと
三日も生きてられんかったやろなって思います。

 

それは置いといて、先遣部隊の又兵衛に続いて

薄田兼相(すすきだかねすけ)、通称隼人正さんが、

濃霧のため遅れること8時関余りで誉田に着陣します。

 

この方、冬の陣では博労淵砦の守将でしたが、

無類の酒と女好きが災いし、

遊郭に通っている間に
砦を陥とされると云う失態を犯してしまいます。

 

ついた仇名が橙武者(だいだいむしゃ)。

見かけ倒しで正月飾りくらいにしか使えない
と云う意味らしい。

 

出自ははっきりしませんが、
秀吉の馬廻衆として3000石、
後に5000石を拝領していたと云うから、
なかなかの武将やったみたいです。

 

お墓が大阪の天王寺と、
誉田古戦場跡の近くの2か所にあり

両方とも子孫の方によって建てられています。

天王寺に有る方は、
6代目の子孫薄田兼実によって、
1814年(文化11年)200年忌に建立されました。

羽曳野の方は、1885年(明治18年)、
子孫にあたる広島藩主浅野氏の一族によって建立され、
1996年(平成8年)に
市の有形文化財に指定されています。

 

ここで、???が。

なんで広島藩主浅野氏の一族が子孫なの。

 

よくよく調べてみますと、
本能寺の変で信長の小姓として仕え、

討死した人物に
薄田景宗(すすきだ かげむね)さんと云う人がいます。

薄田兼相は孫にあたり、
の薄田文右衛門(すすきだ ぶんうえもん)は、

その縁で浅野家に召抱えられ、大坂の陣後に、
一時浅野姓に改姓させらていたようです。

 

広島浅野氏の一族ってところがみそですな。

明治期の浅野氏当主、
浅野 長勲(あさの ながこと)らが関わったと
書かれているブログもありましたが、
縁戚にでもナットたんでしょうか。

確かにすんげー立派な墓所ではありますが、
直接は関係ないと見た。
( ̄ー ̄)

 

おっと、話が長くなりました。続きは次回の講釈で。