「母さんただいま」
返事はない。しかしテレビの音が聞こえるから部屋にはいるのだろう・・・。
「母さん?遅くなってごめん」
寝ているのかと思ったが、テレビを見たまま俺の声に応じようとしない。こんなときは大抵イライラしているときだ、ああやって無言の圧力が時には数日も続くことがある。
テーブルには缶詰一つとすでに空っぽになった缶ビールが4~5本転がっている。母親は糖尿病のため、医者からも酒は控えるように言われているのだが・・・。
そして病気のため足も悪くしており自分で料理をすることも難しくなっている。
「今、何か作るからちょっと待ってて」
そう言って、部屋から出ようと背を向けた瞬間、顔のすぐ横を何かが飛び越えていったと思ったら空き缶が勢い良く壁にあたり派手な音をたてた。
「あんた!こんな時間まで一体何してたんだい!?」
「ごめんなさい・・・。ちょっとゼミの課題で、調べものをしていたんだ・・・」
母親に部活に入っただなんてとても言えるわけない。絶対に認められるわけがないのは決まっているからだ。
「要領の悪い子だよ、まったく。大学のことより、あたしの世話のほうが優先だろ。誰のおかげで通えると思っているんだい?あたしが前の旦那から慰謝料と養育費をがっぽりせしめてやったからだろうが!今度から遅くなるときは飯の用意をしてから行きな!」
「うん、今日はごめんなさい・・・」
母親に嘘をついてしまったことは正直罪悪感がある。しかし、母親は大学に行かせた恩と病気を理由に自分の世話ばかりさせる。毎日毎日、勉強と家事だけの喜びのない灰色の日々。もうそんな毎日の繰り返しに我慢ができなかった・・・。明日から練習試合に向けて、毎日遅くなるかもしれないが、嘘をついてでも部活に参加し続けよう。そうすればこの息のつまりそうな生活に風が吹くだろう。
冷蔵庫の中の野菜を取り出し、細かく切っていく。普段より野菜を切る音がリズミカルに弾んで聞こえるのは、頭の中に今日出会えた一人の女性のことを考えていたからだ。
