当院の非常勤医師の丸山隆志先生(東京女子医大・脳外科)
の産経新聞月イチ連載・コラム(最新電子版)です.
芸は身を助ける、ということわざがあります。人々が持つ
芸術的な才能や技能が、人々が困難な状況や問題に直面した
とき、克服する手段として役立つという意味です。自らの才能
や能力を信じ、活用することの重要性を示しています。
詩子さんというすてきなお名前の方がいます。彼女はピアノを
弾くことが大好きな女性で、毎日ピアノを弾く生活を続けて
おられました。ところが、ある日半身のまひを生じてしまい、
両手でピアノを弾くことができなくなってしまったのです。
ピアノを弾けない時期が過ぎ、彼女は片手のための練習曲から
再開しました。まひした手の動きが少しずつ戻ってくると、
その動きに合わせてテンポの緩やかなショパンの練習曲に取り
組み始めたそうです。生活のなかでは自分の意志でうまく動か
せない指が、時々勘違いして勝手に動いてくれるようになった
と教えてくれました。
脳にはミラーニューロンという神経細胞があることが1990年代にイタリアから報告されました。他者の行動を観察することで、その行動を自分自身が行っているかのように錯覚して活動する
細胞が発見されたのです。例えば、誰かが飲み物を飲む様子を
見ていると、ミラーニューロンはその行動を自分の脳の中で
シミュレーションし、自分がその行動を行っているかのような
感覚を生み出します。この働きを応用して、半身まひのリハビ
リテーションに鏡を用いたミラーセラピーと呼ばれる方法が
用いられます。鏡に映る健全に動く手足のまねをさせ、脳の
錯覚をとおしてまひしている側の運動能力を刺激する手法です。
ピアノが好きな彼女は、ピアノに向き合い、できることから
取り組んだことで、脳の中の代償する機能を呼び起こしたので
した。なにより彼女の素晴らしいのは、脳腫瘍の治療に取り
組み20年たちますが、自分は脳の病気と一緒にいることを
受け入れている、という言葉でした。
脳の障害を受けたとき、なくしたことの悲しみから抜け出せ
ない方がいます。私が伝えたいのは、なくしていない能力を
喜び、今まで以上に使ってみることです。一芸のない私の場合、「好きこそものの上手なれ」でいくしかありませんが。
(脳神経外科医 丸山隆志)