こんにちは、元気ですか(・・?

 

ちと、体調を崩し、手腕の痛みが継続しましたので、信長考察の記事の更新を休憩しました。結構、この信長考察の記事、見てくれている方が、毎回1000人以上はいるようで、ありがとうございます。感謝しています。

 

そこでブログを更新していない間にいろいろな事件記事をアップしたので、少し現代の日本を空想という形で、信長の考察と関連しながら、考察してみます。

 

元との交渉は、当初北条幕府ではなく、別の支配者層が、元のクビライのもとに使者をつかわした。鎌倉北条幕府は、その件について全く関知していない。北条鎌倉幕府が、日本列島の支配者になってから、当初地方の代表的地域に国府があり国司を朝廷は派遣していた。しかし、鎌倉北条幕府になってから、その権限を縮小し、主に鎌倉北条幕府支配体制の守護職を置いた。

 

その後、元との外交交渉は、鎌倉北条幕府が行う。鎌倉北条幕府は、この日本列島を支配しようとする外国に対しては、断固拒否の姿勢をしめした。主に主戦場は、北九州となったため、北条幕府本隊は、鎌倉を動かず、九州の地場侍、主に鎌倉幕府から派遣した武士が中心となり元との戦を開始した。鎌倉と距離的に離れているために、連絡はスムーズにはいかないが、鎌倉の支持もなく、主に九州の侍による判断で元に勝利した。

 

もともと日本列島の武士の精神は、他国の支配を受け入れないというのが基本的姿勢であった。当然、織田信長にしても徳川家康にしても他国の支配は受け入れないでしょう。しかし、なぜか、江戸末期、明治から現代までの日本列島は、他国の支配を受け入れた。近現代を考察を考える場合、このポイントが重要な気がするね。

 

そこで初めに申したように、空想ということで現代の動きを考察してみますね。あくまでも空想です。

 

昨日の株式市場は暴落し、今日の株式市場は、反発しました。この後どうなるでしょうかね。反発し上昇するにしても株式を買い進むという積極的な国内の投資家は、いないようにも思えるし、日銀も今後下落したとしても介入という手段をとるような姿勢も見せていないように感じるね。買い進む力があるかどうかは、外国人投資家の資金の動き次第でしょうかね。

 

そこでここ数か月の日本の動きをみてみますか。

4月だったかな、麻生さんとトランプさんの会談がありましたね。ロックフェラー5世の紹介でこの会談が行われたようです。官房機密費や政策活動費などが問題となっていますが、こういう会談を行う場合、それなりの資金が動く。当然日本側から米国側へ。ただで糧もなければ会談など行われない。バフェットと一緒に食事するにしてもそれなりの資金が必要なのが、外国有力者との会談。当然、昔からそれなりのつながりがあれば、そんなことしなくてもメールで済むこともあるけどね。

 

そこで記事になったことは、ドル高は、容認しないということでしたね。

 

そして5月の連休中に金融庁(財務省)による円買い介入。

イエレン財務長官は、単独介入に対しては否定的意見を表明。

7月にも財務省による円買い介入が行われた。イエレン財務長官の姿勢は、円買い介入に対しては、極めてまれであるべきだという姿勢は変わらず。

 

相場というのは、いつまでも上昇しつづけるということはない。いつかは利益を確定しなければならない。何も相場を動かす材料がないのに大量に利益確定することはできない。資金が大きければ大きいほどね。

 

トランプさんの暗殺未遂事件。これも金融筋の一部には、暗殺かどうかわかりませんが、何らかの事件がおこりえるとの噂か情報が流れていた。しかし、その情報は、失敗に終わった。

 

あくまでも空想ですので。

 

トランプさんの暗殺未遂事件によって、株式市場が下がる材料がなくなった。そこで次の日銀の会合に照準をあわせた。

 

トランプさんの暗殺事件が未遂に終わったことで、共和党の大統領候補の地位を確定させた。そしてバイデンさんは、次期大統領の地位を断念した。選挙には、日米ともに選挙は金次第。大きな選挙の前では、材料株がにぎわうのが常識。たぶん日本でも今年は解散選挙を行う可能性が高いね。

 

日本でも官房機密費などの税金の用途が、主に与党の選挙費用に使われていたことがわかってきている。選挙運動も政治活動というのも正しいんですが、その資金の出所が、問題ですね。まあ、問題だけで事件になったとしても現代日本では、事件として扱われないようですが。

 

あくまでも空想ですからね。

 

イエレン財務長官でさえ円高による財務省の介入を牽制するだけで批判ができないような金融筋の力が動いているように見えるね。そのような力は、当然日本政府に対してイエレン財務長官に対する影響よりも強い影響を与えることができる。

 

先日の日銀総裁による金利アップ発言。規模は小さいが、その後も金利アップが続くような発言を促す。日銀総裁は、反対だったようですが、政府筋の圧力により決定したとのうわさもネットで流れている。

 

あくまでも空想ですからね。ひょっとしたら、今回の下げは、日本側の政府筋、金融筋もある程度情報を得ていたように見えるね。しかし、今後の動きは、たぶん知らされていないでしょうね。その筋から、今年の解散も圧力によっておこされるかもしれないね。

 

空想です。

 

ここ最近立憲民主党の江田憲治さんの動画をアップしていますが、自民党の裏金をよく知っているからこそ、その知識をいい方向に向けて政治に活用してもらいたいね。ただね、やはりすでにある考えに洗脳されているのが動画をみているとわかるので、言うだけ番長にならないようにお願いしたいね。

 

支配を受け入れた以上、政党が変わろうとも総理・総裁が変わろうとも支配者層にとってはあまり影響を受けない。しかし、支配者層を変えようとする動きでなく支配者層の意識を変えさせることはできるからね。

 

以下の事件も空想として。

 

昭和末期かな、大阪の建設会社の重役による談合告発事件がありましたね。西○建設の社長だったか副社長だったか忘れましたがそんな事件ありましたね。元大○建設の重役だった人。平成に入ってからだったかな。

 

 

 

 

もともと大阪の土建業界の地盤は、よそ者が公共工事の入札に参加できなかった。大阪のことは大阪の業者、近畿のことは近畿の業者で決めさせてくれという姿勢。しかし、そのような権益を外国資本は許すはずがなかった。当時は、公共工事などは談合で決めていた。その主なリーダーが、西○建設の重役。そうすることで、お互い競争せず談合に参加する業者が生き残れるよう采配していた。しかし、その談合主に反発するグループが立ち上がった。近畿地方というのは、権益競争のなかで非常に特殊な地盤だったらしく、その中に新たなるグループを参加させ、さらにはその動きにあわせるように官僚組織が動き、大きな事件へと発展していった。ある官僚組織を主導した談合組織会合の中で、一人だけ異質の人物が参加してきた。その人物は、談合関係者に一枚の名刺を渡した。そして、この談合が事件となった本当の主体がどこかわかった。その後、一枚の名刺だけで談合上層部の姿勢は、大きく変わっていった。日本の政界も大きく動いた。土建業界の利権の政治力を発揮したのは、旧田中派。しかし、田中角栄が倒れ、小竹金の時代へと流れが変わる。

 

談合という日本型互助システムにくさびをいれたのが、日米構造協議。いわゆるここ最近でいうグローバル化=世界金融自由化。

 

その後、大阪を含む近畿の公共工事にJVとして米国の建設コンサルト会社が加わるようになる。近畿だけでなく、日本全国大型の公共工事には、外国企業が何らかの形で加わる。

 

そのような状況の中である事件が表面化した。つまり暴力団対策法。この事件では、任侠団体であるやくざが、国家を訴えるという珍しい事件となる。当時は、やくざといえども一般民衆のかたぎとは違うという意識もありながら、日本国民としての意識もあった。しかし、相手は国家ではなかった。同類だった。闘い方を間違えた。

 

日本は、明治維新から国際感覚を養った人材を多くは輩出したようにみえるが、現実は、そのような人材を排除してきた。これは、経済界でも教育界などの他の世界も同じ。

 

昭和の敗戦から日本は箱物行政を続けてきた。箱物行政という組織社会は、国力を強くしない。上をすげかえればいいだけ。さらには、上の者を親と子でつなげる。本来の日本は、親と子で権力を継続させることは避けてきた。徳川幕府にしても同様。親と子と連続してたぶん継続されていない。継続されたとしてもその背後で兄弟間の激しい争いの中で地位を得てきたはず。歴史書では見えないだけ。

 

近畿の事件の中でおきたのが、阪神大震災。多くの庶民が地震による犠牲となった。そしてある一部の日本の団体だけが、その庶民の危機を救った。地震で水道などが不能となり、予期していたかのように井戸水を用意していた団体があった。そのおかげで多くの大阪・神戸の市民が助かった。当然、国はなんの手段もしていなかった。

 

あくまでも空想です。

 

故元自民党代議士野中広務翁は、2003年10月に引退した。そして最後に一つの言葉を残した。

 

「愛なき人生は暗黒なり、汗なき社会は堕落なり」

 

野中広務翁は、被差別部落の出身だそうです。この件も今後信長のブログで考察しますが。江戸時代末期、少なくとも家光の頃までは、日本全国ほとんどが部落です。部落差別など本当にあったのか不思議に思うこともある。

 

飢饉や疫病や災害にあった江戸時代以前の日本列島は、淀川が人の死体で積止ったような事態もあったようですし、飢饉の時代は、どんなものでも食ったと書かれている。そのような状況が続いた時代に、庶民に格差や差別あったのかと思うね。

 

そこで少し日本の古代をつついてみます。

もともと、日本の東北および北海道地区は、暖かく非常に暮らしやすい気候だったようです。その当時住んでいたのは、現代の日本人のような姿ではなく、縄文人だったという。この時代は、今の様な現代人のような姿をしていたのか、あるいはレプテイリアンのような姿をしていたのかわかりませんが、日本列島に住んでいたのは、紀元前7000年頃には、人口としては数十万人程だったとされている。多くが、現代でいう小さな部落の集まり。

 

その縄文人にしても気候の変化によりより住みやすい所を求め、日本列島にやって来たという。つまり暖かい地域が、南へと移動していった時代だった。東北、北海道地区に住み始めたけれども、時代がたつにつれて徐々に住みやすい気候が南へと移動していった。一部は、海峡をわたり新天地へと向かったり、他は、日本列島を西へと移動していった。大陸から日本列島へと渡ったものもいたが、その地区は、主に東海、関東、甲信越などに住みついた。主には、この人達を弥生人といっている。

 

弥生人と縄文人は、多少争いもあったかもしれないが、弥生人を中心に融合していった。いわゆる山の民と平野の民との融合の時代。たぶん棚田の時代。共同体として食糧生産を始めた時代。

 

この弥生人と思われる勢力は、現代の尾張・三河から広がり、関東、甲信越へと侵入し縄文人と融合していったようです。ただし、鹿島あたり、このブログでいう高の部族の居住場所は、縄文人の遺伝子が多い地域だという。となると、犬(秩父)と毛(足り)の民族は、大陸からの出身者となる。縄文人の遺伝子が強いのが、現代の鹿児島と東北地域と高の部族の地域(茨木県)。

 

このブログでは、毛の民族というのは、神武天皇が率いた部族としている。つまり神武天皇が率いた部族は、この地域いわゆる東北・甲信越から九州へと向かい、そこから東へと侵入したということになります。

 

前回のブログの続きにはいりますが、東海道に属する三河国は、大化の改新後に穂国造と参河(三河・三川)国造の支配領域を合わせて成立されたと考えられている。ただ、確証ではない。500年頃のヤマト王権の時代では、現代の愛知県のあたりは、尾張・三河・穂とに分かれており、三河は現在の西三河、穂が東三河となる。古書には、三河碧海郡県主、三河額田郡県主等の記載があるようです。最初の三河国造は、成務天皇の時代の知波夜命(ちはやのみこと)といわれ、物部氏系国造の一人。

三河地区は、成務天皇の時代、紀元後190年以前の時代とされ、物部氏は、三河国造一族として支配していた地域だったようです。秋野、筧(かけい)、額田、多門、桜井などの苗字も古書に残っているらしく、国造家の本宗は、西の碧海郡に存在していたようです。家康の子・結城秀康の母は、三河連姓を名乗る永見氏の出身。知立神社の祠官家。

 

碧海郡という地名があるからして済州島と何らかの神話的つながりがあるように見える。また、徳川家の始まりは、済州島の王家の神話と似ている。神話の時代は、尾張から伊豆もしくは千葉までを碧浪国といわれていたかもしれないね。

 

東国の勢力の協力を得て天皇になった天武天皇にしても、済州島の王子に対して冠位を与えているし、何らかのつながりがこの三河から東の太平洋ベルト地帯の沿岸地域と関係があったように推測する。

 

物部氏といえども古代東北方面から流れた縄文人と弥生人との混血。物部氏の祖という部族もいた。それが、意富氏。多氏ともいう。(多を氏の名とする氏族)

 

 

 

 

この意富氏は、出雲氏とは別系統のようで主に日本列島の中央構造線に沿って住まいを形成していった一族であったようです。

 

 

 

中央構造線上に集落を形成し、構造線に基づいた道路を形成し東から西までをつなぐインフラを形成していった一族。その構造線の中に出雲氏の一族も入っている。意富氏は、すでに地学的知識を持っていた。さらに流通網を作る知識も持っていた民族だったことがわかる。

 

日本には多神社もあり、天武天皇の時代、もっとも協力した多品治(おおのほんじ)が登場する。多品治は、美濃国の安八郡の湯沐令(ゆのうながし)として登場し、皇族の領地である湯沐邑を管理していた。当時は、美濃安八郡までは、いくつかの小島を間に海とつながっていたかもしれないね。すでにそのころからこの地域は、倭寇の財産の管理地となっていたかもしれないね。

 

倭寇の地域である以上、何らかの貿易材料が必要。主には、華南やマレーシアやオセアニアなどにすでに交易をしていたのが倭寇。船の材料で重要なのが木材。しかし、華南やその南の地域の木材は、船の材料にはあまり適していない。木質として弱すぎる。やはりある程度寒い地域で育たないと木材は堅い素材にはならない。倭寇は、日本の東海から木材を輸出していた。或いはすでに船造りを現地でしていたかもしれない。その中でも信州の杉などは、ブランド木材だったような気がするね。

 

三河から現代の静岡、神奈川は、主に南アジア貿易における重要な利権地帯だった。

 

中国大陸華南は、日本列島を古代から重要な資源地帯とみていた。さらにインフラなどの形成を知り尽くした氏族意富氏などが中央構造線を利用した邑作りを形成し、そのころから日本列島を一つの基地として動いていた。意富氏というのは、定住をする民族とともに定住をしない民族として日本列島に存在した民族だった。

 

意富氏の中で著名な一人が、古事記を編纂した太安万侶。

 

元明天皇から古事記の編纂するよう命じられる。天武天皇からともいわれているね。

太安万侶は、多品治の子とされる。

 

 

通常、その子孫或いは一族が、墓をまもるために近くに居住しているはずですが、隠されたのかわかりませんが、太安万侶の部族は、移動させたれたんでしょうね。有力な氏族の長や利権がからむ組織は、たぶん日本の場合は、別の部族に乗っ取られているね。利権社会だから、大きな政変があれば、利権一層変化してしまうが、天皇家という大きな利権があるため背乗りこそがもっともスムーズに支配するには適切な方法だったかもしれないね。

 

古事記序文には、臣安万侶が申しあげますとして始まる。

「神々によって日本の国が形作られ、その国を歴代の天皇が徳のある政治にによって国が治められてきたことが簡潔にかかれている」

さらに、

「天武天皇が、正しい歴史を後世に残すために家々に伝わる帝紀・旧辞を整理し、稗田阿礼に暗誦させたこと。その後平城京に遷都した元明天皇が、和銅4年(711)太安万侶に稗田阿礼が暗誦した旧辞を書物にして献上するよう指示、わずか4ヶ月で古事記を完成させ天皇に献上する」

 

ここからわかるのが、古事記の天皇記というのは、意富氏の王の歴史書ではないかなと考えられる。ある意味物部氏の歴史書。

 

意富氏は、定住をしない氏族を持つ。つまり、男性の王は、城を留守にして外地にでて戦闘をしながら侵略する。海人族は、妻を陸地に住まわせ、船で遠出をする。陸地の住民を守り、支配するのが妻の役目。織田信長は、城を妻にまかせ外へ飛び出し、次々と主城を変えていった。意富氏の性質と同じ。

 

日本列島を一つの組織として考えた氏族が、いたことも事実ですが、その代わりそうでない氏族もいた。

 

では、信長の時代は、一体どんな人物が武士として戦っていたかを桶狭間の戦いから考察してみますか。桶狭間の戦いについては、すでに考察していますのでその箇所を再度読んでもらうしかないんですが、今川義元を退治した後、その後どうなったか考察してみます。

 

今川義元は、三河、遠江、駿河をすでに支配していました。そして尾張へと出陣し、桶狭間で敗退します。織田家と今川家とは、10年以上争っており、織田家は、信秀が没するまでに安城城などの三河領を失っていたし、大高城などの尾張領内の城も奪われていた。そのような状況の中で、信長は尾張を統一していた。つまりは他国の支配を受け入れないために。そのために信長につく部隊は、忠誠を誓っていた。大高城の救援に向かった松平元康(徳川家康)、朝比奈泰朝が各々信長の陣地丸根砦と鷲津砦に攻撃を開始したことの報を受け信長は出陣した。

 

豪雨も予測していたかわからないが、今川本隊や別動隊にきずかれずに今川本隊に近づく。そして今川義元の首をとる。すると今川義元本陣総崩れと首を取られたことが二時間程で知れ渡ると。今川軍の組織立った抵抗はなくなる。本陣以外の戦いは、今川勢優勢で動いていたはず。それが主君が打ち取られただけで体制が崩れた。今川義元は、すでに嫡男今川氏真に駿府の今川館を任せていた。当時は、多くが資金目当ての傭兵で、主君が死ねば、ただ働きとなり多くが逃亡するしかなかった時代だったんでしょうね。

 

松平元康(徳川家康)は、今川氏真の了承を得て、岡崎城に入城する。しかし、すでに信長に寝返った勢力が三河に存在していた。高橋荘と加茂郡西部の勢力は、信長の桶狭間の勝利で織田方に寝返っていた。当然、松平信康は、寝返った地域の城へ攻撃をかける。1年ほどで松平信康は、賀茂郡西部と高橋荘を征服したが、そこへ信長が出陣する。信長が出陣すると高橋荘の城主等は、すぐに降伏。松平元康もまた、信長の出陣に対しては恐れていたのか直接の対峙は避けた。すでに今川義元を破った信長とは、対峙したくなかったんでしょうね。しかし、信長が尾張へ戻ると松平元康は、高橋荘の城へと攻め合寝返りさせる。

 

信長は、土岐氏という敵が美濃に存在する。三河地区など狙っていない。今川義元が、尾張を狙ってきたために戦っただけで、桶狭間の戦いの後、すぐに美濃攻めに転じている。美濃・尾張とつなぐ揖斐川、長良川、木曽川の支配こそが重要。

 

水野信元を介して松平元康に和睦を打診する。当時から重要な利権の一つが飛騨の木材。高橋軍は、丹羽氏の支配には必要な地域であり、お互い話合いで領土の区分けをしたようです。もともと信長からみれば、松平家は、祖父もしくは父である織田信定は、松平家出身。(このブログではね)

 

松平信康が今川家から離脱し独立するならば援助する価値があるとみていたんでしょうね。重要なのが川の流通支配。織田方の憂いがなくなったことで、今川方に集中できるようになり、今川攻めへと動く。というより東三河を獲得したかったんでしょうね。

 

そこで、松平元康は、手痛い損害を被る。次回へ。

 

そこら辺から松平元康が、別人へと変わります。これも以前このブログで説明しましたが、若干変更していきます。その変更が三河一向一揆へとつながったとみています。

 

ここまでで。

 

済州島の王族は、この地帯とは古代から深い繋がりがあった。唐と新羅連合との戦いで百済の貴族、王族の多くが日本列島へと逃亡した。その助けをしたのが対馬の宗像一族。百済に存在した多くの宝や財物を倭寇こと宗像氏が、日本へと運んだ。たぶん済州島の倭寇も協力したかもしれないね。百済が当時半島にあったのか、それとも遼東にあったのかわかりませんが、多くの財物をのせて日本列島へと逃亡した。そして彼らを日本列島は受け入れた。

 

三河地区は、源氏政権となり安達盛長が守護に任命されたが、主に東三河南部で主に活動していたようです。承久の乱後、足利義氏が三河守護になる。子孫が足利尊氏。

 

足利幕府時代というのは、戦国の時代でもあったが、経済面においては、農業、工業とも技術が向上し、生産力も増大し、内外の流通が盛んになった時代であった。さらに出自さえ不明な農民や商人等が社会進出しており、この時代から庶民文化が登場したともいえる。室町時代、三河は、高氏、仁木氏、一色氏、細川氏という足利一族が三河守護を務めた。高氏を高階氏ともいう。

 

以前松平家の素性を考察しました。そこから松平家と織田信長の祖父もしくは父といえる織田信定とのつながりを考察しました。なぜそのような関係が存在したか。それは、松平家は、もともと二つの系統に別れていた。その部分を考察します。久の文字に関係するまでにいろいろ説明する部分があるのが松平家と織田家。他の家も同様ですが。戦をするにしても必ず必要なのが資金。信長の資金源もある程度わかりますが、松平信康の資金源は何だったんでしょうかね。いくら今川義元が倒されたとしてもその嫡男氏真が存在しており、その巨大勢力に立ち向かうだけの資金がないと周囲はついてきません。

 

松平信康の資金源は何か。

 

ではごきげんさんで。